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中谷先生、お言葉ですが日本のモノづくりはそれほど安泰でもないように思いますが?

モノづくりニッポン礼賛はどうも的ハズレでは?


中谷先生、お言葉ですが日本のモノづくりはそれほど安泰でもないように思いますが?

日本のモノづくりの復権が言われてもう3〜4年経つ。
90年代の長期不況とデフレ経済の辛酸をなめて、日本の経済人も技術者ももう皆すっかり意気消沈していた時代があった。
99年にある経済セミナーに参加した時に、日本を代表する日立のしかるべき立場にある技術の専門家が
「今日本にはよって立つべき技術は何もない。
自動車はたまたま外貨を稼いでいるが、これだっていつかは構造不況業種に転落する時代が来ることは歴史が示している。
その時に次の産業は何があるか?
何もない!
あえて言えば、iモードのヒットに関連して、モバイル通信の技術にかかわるものだけが今日本の唯一誇れるものだ。
ここに一点突破で集中するしか日本が生き残る道はない」

といっておられたことに大変ショックを受けた。

日本のモノづくりの第一線におられる人が、ここまで自信を喪失しているということに驚きを感じたからだ。
私たち高度成長時代に少年時代を過ごした世代は学校で
「日本は加工貿易型経済の国である。日本には資源がほとんど無いので、資源産出国から鉄鉱石やボーキサイト、石油などを輸入して、加工して製品を輸出することで成り立っているモノづくりの国なのだ」
ということを社会科の時間に散々習った。

だから日本はモノづくりの国なのだということがもう刷り込みのように定着している。

ところがそのモノづくりにはもう希望が持てないという。
これは国の形を根本的に変えるか国が滅ぶかしか道がないということではないのか?
この話に私は大変危機感を感じた。


ところがこの方が予言した、iモードを中核にしたモバイル情報産業への産業の選択と集中は結局行われなかった。

いつの間にか日本のモノづくりは、中国式のモジュール化(要するに部品やユニットをまるまるコピーすれば、最終的には全体も完全にコピーできるという中国式の驚くべき産業実践論)に対抗すべく製造技術をモジュール化、ブラックボックス化した囲い込み(亀山方式、ビエラ方式)することと、徹底したリストラとラインの合理化によって生まれた余剰資金を内部留保して無借金経営どころか、新規設備投資も現金支出でまかなえるという財務改革で製造業は体質改善して、かつての「強い日本のモノづくり」を再生してしまったようなイメージになった。

数字だけ見ればトヨタは空前の収益を毎年更新している。
かつては経営危機的な状況だった松下電器産業は経営目標の「Vターン革命」を軌道に乗せ、再び好業績企業に名を連ね始めている。
主力商品のビエラはその中核技術の「映像プロセッサー」を完全にブラックボックスにしてしまい、ここだけを日本国内の非公開の工場で製造して、それ以外の大部分の組み立てラインを人件費が安い中国に置いて、組み立てはやらせるがコピーは不可能な体制を作ってしまった。

シャープの亀山工場に至っては検品ライン以外は一切部外者立ち入り禁止で、中国の生産ラインも使わないブラックボックス化でコピー対策を徹底して、「亀山ブランド」として独自技術をブランド化している。
かつてはDVDレコーダーの開発でその技術が中国に流出したために、中国製コピー品の洪水に押し流されて、東芝を始め日本の開発メーカーはDVD-Rの膨大な開発コスト(多分千億円単位のコスト)をほとんど回収できなかったという教訓が生かされ、日本のモノづくりの技術は主にコピー対策で有効に働いている。


このモノづくり産業の好調がここ何年か新聞の見出しにも連なるようになり、なんとなくかつての
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」
の頃のような、それほどひどくはないかもしれないけれどちょっと天狗になったような論調になってきているのが気にかかる。


かつて、AppleがiPodを発売した時に、極力ボタンを廃してジョグホイール式のコントロールを導入した点が注目を集めた。
こういう小型音楽プレイヤーは言うまでもなくソニーのウォークマンをはじめとして日本の家電メーカーのおハコで、Appleはこのジャンルでは新参者ということになる。
それまでの日本製品の流れとして、こういう製品のコントロールはピアノタッチキーを使うというのが常識だった。
このジョグホイールはインターフェイスの革新と見る人もいたが、ある人は
「アメリカ製品だからタッチキーの耐久性などの品質管理には自信が持てなかったのだろう。だから、こういう形にしたに違いない」
という論評をした。
その証拠に
「このホイールには本体との間にガタがあって、これが回転させる時にガクガク動くのが実に大雑把なアメリカ製品らしい。もし日本のメーカーにこれと同じものを作らせたら、もっとカッチリした操作感のものを作るに違いない」
と続く。

確かに機械部分の作り付けに関しては、日本製品というのはカッチリした仕上げをする。
この米国製品のガタガタしたイメージと日本製品のカッチリしたイメージは、例えばトヨタや日産の車は塗装ムラもなくドアの作り付けもきっちりしているがGMやフォードの車はなんとなくドアの引っかかりが気になったり、噂によるとドアパネルの内側から従業員の食いかけの腐ったハンバーガーが出てきたとかそういう話とリンクする。

このホイールコントローラのガタについての批評も
「例によってアメ公の作るもんはガタガタしてるな」
というくらいの発想だったのだろうと思う。


先日さる大学の学長でソニーの社外取締役も務めておられる高名な経営学研究者・・・と名前を伏せてもどうせこれだけの条件で誰のことか特定できてしまうのでもう実名で書くが、中谷巌先生がさる席で
「アメリカのアップルコンピュータが作っているiPod、これ自体は大した技術じゃないんですよ。大した技術じゃないんですけども、そのデザインの良さと格好良さで若者の心をとらえて、日本製品を抑えてヒット商品になっているんですね」
とおっしゃっておられてちょっとドキッとした。
つい先月くらいのことだ。

その「大したことない」という根拠は
「中身のハードディスクもNANDO型メモリも全て日本製または日本メーカーが設計したものだ。チップもキャパシターもみんな日本製だ。
だから日本でも同じものを作ろうと思えば今すぐにできる。
Appleはアイデアとマーケティングでなんとなくうまく切り抜けてきた。」
ということらしい。

事実iPodの中身は7〜8割は日本製だということだ。
これは投資コンサルタントのダレル・ウィッテンさんからもつとに聞いていて、
「日本は何も失望することはありませんよ。iPodが売れれば中身のパーツは8割が日本製なんだから日本も繁盛するということじゃないですか!」
という妙な慰められ方をしたので印象に残っていた。
Appleは正確なところは公表しないし受注企業は厳重な守秘義務契約で発言できないのだが実際そうらしい。


ただ、この件に関しては
「お言葉ですが中谷先生、そのご認識は多少の誤謬があるのでは?」
と反論したい。

大した技術でないのなら、今すぐ日本でも作れるような簡単なものなら・・・なぜ先生が社外取締役をしておられる日本企業はAppleにやられっぱなしなのだろう?
改良が得意な日本がiPodの基礎技術をさらに改良してもっと優れた製品を作って、Appleなんか駆逐してしまうということがなぜできないんだろうか?
大体なぜ日本企業からiPodを上回る製品が生まれないのだろうか?

例のガタガタしたホイールの件でも、
「所詮アメ公の作るものは・・・」
なんていう低次元な批評をよそに、なんとAppleはコントロールホイールの回転部分を廃止して、ここをノートパソコンのトラックパッドなどと同じタッチセンスにしてしまい、このガタツキの問題を解決してしまった。
これがもし日本製だったらこういう解決をしただろうか?
日本メーカーは精緻な機械技術を持っているだけに、逆にこのガタを無くす精細な回転軸の工作に力を入れたかもしれない。
あるいはホイールを止めてケータイのテンキーのような親指タッチのボタンを開発したかもしれない。
しかし、従来の音楽プレイヤーのピアノキーのように
「ひとつのボタンがひとつの機能に対応しているというインターフェイスはもう古いのだよ」
という理念がもし根底にあったとしたら、ホイールコントローラという考え方を捨てることはできなかったろうし、そのホイールが物理的に回転するということには大した意味がないという発想にすぐにたどり着いたのは自然かもしれない。

これは後講釈だから解るのだが、当時は見えていなかった両者の工業品に対する根底の発想の違いが見えた部分だと思う。


Why Apple Isn’t Japaneseという記事がNewsWeek Internal Editionにでていることを、 B3 Annex- Newsweek記事、「Appleはなぜ日本企業ではないのか?」にみる日本論というエントリ経由で知った。

まさにiPod、iPhone、iPod TouchとAppleが矢継ぎ早に打ち出している製品群は
「それこそ日本のお家芸だったものばかりじゃないか」
というジャンルの製品だ。
「そのハードウエアは大したことない、なぜなら中身は日本製だ」なんていっているとこの製品群のヒットの意味が分からないような気がする。

実際なぜAppleは日本企業ではないのだろうか?
なぜ日本企業はAppleに先行を許したばかりか、いつまでたっても失地を回復できないのだろうか?
ここにもいろいろな分析が書かれている。

98年〜99年のiモードのヒットを皮切りに「一点突破すべき」とあの日立の重役の方も力説しておられたモバイル技術での世界進出は絵に描いた餅になってしまった。その理由は、

『iモードの操作が、日本以外では受け入れられなかったからであり、それは、ドコモの首脳陣に 日本人しかいなく、世界マーケットの人々が何を欲してるか理解できなかったからだ』 と分析する。

また
『ソニーのデジタル音楽シーンでiPodの独走を許したのは、自社グループ内の音楽セクションに配慮して、複雑なライツマネジメント機構を導入したことが原因』
と、こういう想像力の欠如した方針決定プロセスと、グループ内あるいはセクション間の利害調節、内部調整が対外的な戦略やビジョンよりも重視され、プロジェクトの大目的が見失われるという課程を分析している。

しかし、もっと重要なのは、この
「iPodなんて大した技術じゃないです」
という発想には「ソフトウエア」軽視、機械工作のハードウエア重視という日本のモノづくりの共通の疾病が根底にあるように思えることだ。
いや、ソフトウエア軽視というと、単純にコードを重視しろというような矮小な話にまた堕ちてしまうかもしれない。
抽象的な表現になってしまいそうで上手く言えないが、ブランド論とかにも深くかかわってくるような「製品のストーリィを構築せよ」というような話になりそうだ。


製品のストーリィというのはこういうことだ。
今から30年くらい前にソニーがウォークマンという製品を発表して、これがまさに全世界を席巻したヒット商品になったという話は誰でも知っている。
ただ、このウォークマンは単にカセットプレイヤーを小さくしたものではなかった。
それ以前にもポータブルプレイヤーと名のつくものはレコード式、カセット式といろいろ開発されたことがあった。

しかしウォークマンが根本的にそれ以前のポータブルプレイヤーと違っていたのはあのヘッドホンを標準で付属したということだ。
それ以前の音楽の鑑賞の仕方は、オーディオマニアという言葉があるように音質のクオリティにこだわるあまり自由が全くなかった。
オーディオマニアたちは自宅にリスニングルームを作り、しかも
「スピーカーは理論上無限バッファーが最も原音に近い音が再生できる」
とばかりに、住宅事情に全く合っていない巨大なスピーカーを狭い部屋に置いて、しかも
「音像を正確に感じられるところは左右スピーカと等距離のちょうど正三角形の位置」
とばかりにリスニングポイントを決めて、大きなオーディオセットを部屋に置いているのに、音場の制約で半径30センチ以上は動けなかった。
数十万、あるいは人によっては数百万から数千万という狂気じみた予算をかけて、そろえたオーディオセットの正面の半径30センチの魔法陣から外に出られないという音楽の聴き方をしていた。

ところがウォークマンはこの「リスニングポイント」からリスナーを解放した。
解放されてみると、外の風景に音楽がついて
「まるで映画を観てるみたいだ!」
という驚きがあった。
ポータブルプレイヤーとウォークマンの決定的違いはヘッドフォンを使うことで、オーディオ的なステレオ感をそのままに音楽を外に持ち出せたということだ。

ジャズを聴きながら夜の街を歩けば、フランス映画を見ているみたいだった。

リスニングルームに縛り付けられて音楽を聴いていたのでは、音楽の本当の良さは半分しか感じられないことも解った。
この製品には単にカセットプレイヤーを小型化したとか、そういう技術だけでなく音楽とリスナーの関係性を根本的に変えるようなストーリィがあった。
このことはMDプレイヤーなどが生まれた時から身近にあった今の若い世代には理解しにくい変化かもしれない。少なくとも今の30代以下の人は、物心ついた時から「ウォークマンがない世界」というものを体験したことがないから想像しがたいだろうが、当時はこれは革命的な変化だった。

このウォークマンを見て当時のアメリカ人は
「あんなものは大した技術ではない。
単に既存のカセットプレイヤー技術を小型化しただけでアメリカでも作ろうと思えばすぐにできます」
というふうに評論しただろうか?
結果的にはウォークマンは世界ブランドになり、アメリカでもヨーロッパでも「ソニー」というベンダー名を知らない若者はいないというほど浸透した。


このカセットウォークマンを開発する時に、キャプスタンやモーターなどの回転部品をいかに強度をもたせて小型化するか、その技術開発に非常な苦労をしたという話を聞いたことがある。
このキャプスタンなどの開発秘話で田口トモロヲのナレーション付きの番組ができる物語があるだろう。
だからこれもやっぱり技術の産物なのだが、間違えてはいけないのはこのウォークマンを生み出した人はこのキャプスタンを開発した人ではないということだ。

勿論キャプスタンやモーターを改良して、小型の筐体に納まるようにした技術者の技術は素直にすごいと思う。
そして実際ウォークマンに限らず、日本のモノづくりはこの「キャプスタンをいかにすべきや」という技術的なディテールで常に語られてきた。
NHKの例の番組はそういう視点の集大成のような番組だった。
しかし本当にエラいのはキャプスタンの弾み車を削った人ではなく、ヘッドフォン付き小型カセットプレイヤーという発想をした人だということだ。


フェラーリが創業60周年を記念して創業者の名前を冠した「エンツォ・フェラーリ」という車を昨年発表した時に、その主任デザイナーに奥山清行という日本人を起用した。
この奥山さんについてはいつか詳しく書こうと思っているが、彼は日本のモノづくりの弱点を実に簡潔な言葉で言い切った。

『我々工業デザイナーは一般的には製品の色や形を決める職種の人だと理解されている。
しかし実際にはそれは我々の仕事のごく一部分でしかない。
我々デザイナーは素材の特性を理解しその調理法を決定する料理人のようなもので、技術は素材に過ぎない。
技術は重要ではない。
なぜなら、高級料理店でシェフに「このブリはすごく新鮮なのだ」といって何も調理していない魚をそのまま食卓に置かれたってお客は困るだけでしょう?
それと同じで技術は単なる素材でしかない。
料理人が素材の自慢をしていたって仕方がないわけで、それをどう調理するかが重要なのだ。』


この話は単にウォークマンやiPodを「最初に思いついたヤツがエラい」といっているのでもない。
ここいらなかなか誤解なく表現するのが難しいのだが、単に思いつきだけだったらそんなものはすぐに中国人にマネされて終わりだ。
中国人は技術はいくらでもコピーしてまねてくるが、発想はまねることができない。
ウォークマンは単にカセットプレイヤーを小型化したという思いつきではなく、カセットデッキでカセットに録音することで音楽をレコードから解放し、ヘッドフォンで巨大なオーディオセットから解放し、音楽を外に持ち出すという新しいライフスタイルを提唱してきたのだ。
そのために新しい音楽を録音する機械をウォークマンユーザ一人に一台普及させるというバックヤードの流れまでが構築されたトータル製品だったといえる。

ウォークマンはダイナミックな発想でライフスタイルを提唱してきた筈なのに、いつの間にかその音楽ライセンスの流れや技術スタイルは硬直化し、大容量MDウォークマンなどという目的がほとんど不明な製品を作り出して低迷している間に、本来になうべき役割をiPodにすっかり取られてしまった。

『こうしたことが発生している原因の一部として、年功だけで昇進する制度による管理職のIT技術についての理解の不足と、大学と企業との圧倒的な連携不足を挙げている。』
先のリンク先の記事ではこういう分析を挙げている。
この分析は確かに的を射ている。
企業の「ITに強い」とか言っている幹部はほとんどITの本当の意味を理解していない場合が多い。
そういう人が半可通な知識で物事を決定するから、余計混乱するという局面を日常目にしている。
はっきりいって「オレはよくわからんから、若い奴らに任せる」というタイプのリーダーの方がよっぽど実害が少ない。
しかし、それも確かに重大な障害としてあるのだが、もっと重大なのは
「iPodなんて大した技術じゃない」
と簡単に言ってしまう技術についての発想がこうした硬直を生んでいるのではないかという気がする。
もう一度問うならば、
「なぜiPodは日本ではできなかったのだろうか?
なぜいまだに日本メーカーはiPodを凌駕することができないのだろうか?」
ということが、どうも日本企業の弱点に直結しているような気がする。

そんなこと言ったってトヨタは空前の好決算でアメリカの新車販売台数は日本車が50%を超えてアメリカ車を圧倒していると「モノづくりニッポン派」は言うに違いない。
しかし先方は
「日本は円キャリートレードが原因の空前の円安を背景に、ダンピングしないでもダンピング状態で販売を続けてきたようなものだ。円高局面に入るこれからはそういうわけにはいかない」
という理解の仕方をしているようだ。

実際ブランドイメージとデザインが直結しているドイツ車と質的にも価格的にも破綻がないが無個性なバランスで売っている日本車、どちらが長生きできるかこれからが見物だ。

今の日本のモノづくりは本当にユーザを満足させるストーリィを与えることができているのか、はなはだ心許ない気がする。
ある新聞論説委員が言っていた、
「『モノづくりニッポン』とか安直に言うけど、モノづくりの現場がリストラでガタガタになっているような企業の社長に限って『モノづくりニッポン』というスローガンが大好きなのは困ったもんだ」
という言葉がいつまでも気になる。

日本のモノづくりは本当に、中谷先生が言われるほど安泰なのだろうか?




2007年12月11日













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