昨日の日経朝刊のスポーツ欄に面白い記事が有った。
日経という新聞は社説や1面コラムの質が壊滅的に低いのだが、政治欄やスポーツ欄が実は個性的で面白かったりする変な新聞だ。
というより中央4紙(朝日、毎日、読売、サンケイ)は型にハマった記事ばっかりで、肝心の詳細を知りたいというような情報については共同や海外通信社から買った記事ばっかりで、どれを読んでも同じことが書いてあって「新聞て本当に役に立たない」と思ってしまう。だが、政治、スポーツという特定のジャンルだけは日経というところは独自の取材をしているようで、稀に面白い記事に当たる。
またスポーツコラム、証券コラムなど面白い書き手をそろえていてこの新聞は本当に玉石混淆なのだけど。
という前置きはともかく今朝のコラムはサッカーの山本昌邦が書いていた。
「日本代表チームの決定力不足とかいって批判するのは、思考停止の温室に逃げ込むだけだ」
という一文に目を引かれたからだ。
確かにその通りだ。
日本の代表チームはボールを支配して相手ゴールに迫ってもとにかくゴールが決まらない。
苛立たしいくらい、ボールがゴールに入らない。サッカーはボールの支配率や運んだ距離で勝負が決まるのではなく相手ゴールにボールを入れた数で勝負が決まるわけだから、そういう意味では日本代表チームは実に効率が悪い試合ばかりやっているわけだ。
格下のチームにはボールを支配しながら、なかなかゴールを決めることができず時々相手のカウンターにあってヒヤヒヤさせられ、格上のチーム相手だと高い位置からだけでなくゴール前からでもつぶされて、そこから「どうしようもない」という攻められ方をされてやすやすとディフェンスラインを割られる。
こういうのを『サッカー用語』では『決定力不足』というのだと認識したのはフランスワールドカップの時だったか。この言葉はとても便利な言葉だ。
試合を決定する力が不足しているのだからそのまんまだし、なんだか「攻撃力」とか言っているよりも玄人っぽい。この言葉を使っているとサッカーのことを良く知っているように聞こえる。
しかし実際にはこの言葉は何も言っていないのと同じだ。
決定力というのはゴールを決める力と同じ意味だからだ。
だからわかりやすい言葉に翻訳すると
「なぜボールがゴールに入らないか、それはボールをゴールに入れる力がないからだ」
なんだかバカみたいなレトリックだ。
「日本チームは決定力不足」
なんて批判の仕方は何か知っているようで実は思考停止状態以外の何ものでもない。
その決定力を回復するために「ジーコはゴールの隅を狙え」と指導し、ブラジルの監督は「ゴールの真ん中を狙え」と指導したということがこのコラムには実例として書かれている。
そのどちらが正しい指導かどうかというよりも、状態や状況によってふさわしい具体的な考え方があるはずだ。
これは別にサッカーに限った話ではなく、あらゆるジャンルの物事のあらゆる局面でもそれと同じことは言えると思う。
思考は常に具体的でなくてはいけない。
具体的な例を引いて、選手はシュートの要諦を理解していないと見たら「隅を狙う本能を身につけろ」と指導するのが正しく、選手は技巧も要諦も充分理解しているがシュートという特別なキックに緊張して実力が出せないと見たら「難しく考えないでど真ん中を狙え、そうすりゃちょうど良いくらいに隅にヒットする」と指導するのが正しい。
そういう思考を停止して「決定力不足だ」というのはあまりにも簡単だ。
しかしこのコラムはそれを「思考停止の温室」だと批判する。
これは用語が思考を規定するという実例の最たるものだ。
「決定力不足だ」
と言えば何かを言ったような気になってしまうが、実際には何も言っていない。しかしそういう用語が成句としてあるのでそれを言えば、そこで思考が成立したように見える。しかし実際には何も考えなくてもこの程度のことは誰でも言える。逆に用語が思考を規定してしまいこれ以上の深い思考ができなくなってしまう。
だから誰の言葉だったか忘れたが、人間は言葉によって思考しているのだから用語の選択は慎重にしなくてはいけないということが言える。
思考が循環にハマってしまう時というのはどこかでこういう陥穽にハマっている時だ。
良い言葉だねぇ。
思考停止の温室にハマっている論調を実にそこら中で見受けるからだ。
サッカーだけの話ではない。
ネットにだって思考停止の温室にはまり込んでいる論はいくらでも見ることができる。
というよりもそういうものの言い方が圧倒的に多いような気がする。
脊椎反射のような
「キモイ」「うざい」「氏ね」
は勿論そうだが、脊椎反射のようなマスゴミ批判、脊椎反射のような政治批判、脊椎反射のような行政批判、脊椎反射のようなJASRAC批判・・・
いくらでもある。
何でも脊椎反射的に叩いて、でも「決定力不足だ」程度の批判はバカでもチョンでもできるという自覚もなく、何かを主張したような気になって、何かを考えたような気になって、実際には膝をハンマーで叩かれて脊椎が反応してつま先が動いた程度の反応しかしていないのに、いっぱしの気分になれるのがネットの世界の良いところだ。
昨日のコラムに脊椎反射しかできないスポーツジャーナリズム批判とも取れる面白い表現があったのだが、これがあまりにも正鵠を得ていたのでつい
「それが当てはまるのはスポーツジャーナリズムだけではないぞ」
と思ってしまったという感想を書きたかっただけなのだが。
2007年2月28日
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