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ゲド戦記



監督 宮崎吾朗
声 手嶌葵、菅原文太

前評判も後評判もケチョンケチョンなわりには
ロングランを記録した希有な作品


面白い映画、良い映画の基準って何なんだろうと考えさせる映画。

この映画は美しいタイトルバックと主役の女の子の不思議な透明感のある歌とでなんとなく名作っぽい雰囲気を醸し出していたが、「巨匠宮崎駿の長男」という冠を付けないと誰だか誰もピンと来ないという新人監督の作品で、しかも制作中にその新人監督はパパ宮崎に映画のできをめぐって叱責されたといううわさ話も流れてくるわ、秋葉系アニメオタクのけちょんけちょんなプレビュー評は聞こえてくるわで正直私も観るのをためらっていた。

しかもYahoo!などの観客の映画評を集めてみても5段階評価で5と1の人ばっかりで2〜4が無い、しかも大部分は1ばっかりで5の人が稀に居るという様子を見て私も完全に腰が引けていた。
しかし、ウチの奥さんはそういう先入観も全く無しで「観に行こう」と気楽に映画館に足を運んだ。
映画を観たいというよりも子供を連れ出したかっただけなのかもしれない。

それで観終わった直後の感想は
「確かに穴だらけの作品ではあるけど、そんなに酷評するほどひどい映画でもなかったぞ」
というのが率直なところか。

穴だらけというのはこういう部分だ。
例えばいきなり出だしから主人公は「父親殺し」の罪を犯し、しかもその理由は
「心が闇に捕われたからだ」
とたった一言で片付けられてしまうとか、
「ゲド」
という名前にはどういう意味合いがあったのか結局ストーリィに関連して来ないとか、意味ありげな伏線を一杯ばら撒いた割にはどれも解決されていないというずさんさを感じてしまう部分だ。
しかしそれは原作を読めばわかるのかもしれないし、元々原作のアーシュラ・ル・グウィンはどちらかというとそういう不条理の設定の上に精密で写実的な描写を重ねるという作風の人なのだ。
だから宮崎吾郎作品は意外に忠実な映画化といえるのかもしれない。

確かに穴を探せばいくらでも見つかりそうな手抜かり満載の作品ではあるのだが、
「だから駄作だ」
というのはちょっと違うんじゃないのかなと思っていた。
この映画に漂う不思議な透明感とか、息が詰まるような閉塞感とか確かにパパ宮崎と「同じだ」と片付けてしまえばそういえるのかもしれないけど、心ひかれるものが無いかといえばそうともいえないし、パパ宮崎がもし本当に引退してしまったとしたらもうこういう雰囲気を味わうことができる作風を持った作品は宮崎ジュニアの作品しか無いということにならないだろうか。

それにジュニア宮崎は本当にパパ宮崎の単純なコピー品なのだろうか。
この映画は2006年の夏に公開されて、10月の声を聞いてもまだ公開が続いていた。
大ヒットというわけでもないが、最近の日本映画ではちょっと記憶に無いようなロングランだ。
本当に批評の通りの駄作だとしたらなぜこんなロングランを記録したのだろうか。

本当にパパ宮崎の粗悪なコピー品だとしたら、なぜ見終わった時に心にしみるような「読後感」が残るんだろうか。
実は私にもよくわからないのだ。
「緻密な作品だ」とか「感動的な作品だ」とかいうつもりは無い。
そういう種類の批評が当てはまる作品ではないからだ。
なのに印象には強烈に残る。

この宮崎吾郎という監督は「宮崎駿の長男」という以外の経歴は全く伝わって来ないが、実は結構なくせ者なのではないかという気がした。
DVDはまだ未発売だが、でたらきっと買うと思う。
買って何回か観て、なぜ心に残ったのかよく考えてみたい。
「良くできた映画」と「良い映画」は違うのかもしれないということをよく考えてみたいからだ。




ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!


監督  ニック・パーク
キャスト (英語版)ピーター・サリス、ヘレナ・ボナム・カーター
(日本語版)萩本欽一、飯島直子

驚異的なクレイアニメにちりばめられた「映画好き」への挑戦

アニメ作品をもうひとつ続ける。
これも夏の公開で観に行ってすっかり魅了されてDVDも発売当日に買ってしまった作品。

基本的には子供向けのアニメで、だから子供連れの家族が観に行って全員楽しめるという作品に仕上がっている。
子供はウサギや賢い犬のグルミットのとぼけた愛らしさにメロメロになるだろう。
そういう楽しみ方でも十分楽しい。
またディテールに至るまで驚異的に作り込まれたクレイアニメの技術に驚きながら観ても楽しめるだろう。
そういう登場人物の魅力やアニメの精密さなどにフォーカスした批評はそこら中でたくさん拾えるからそちらを参照願いたい。

それもそうなのだが、映画好きの観客こそがこの映画は最もワクワクするんじゃないだろうか。
この映画は過去の歴代のユニバーサル映画へのオマージュが「これでもか」というくらいてんこもりに盛り込まれている。
いくつ気がついただろうか。

まず誰でもすぐにわかるのは、この映画は昔のピーター・カッシングなどが出ていた「吸血鬼ドラキュラ」や「狼男」がベースになっていることだろう。
ウサギに変身したウォレスがトッティントン嬢をさらって塔に登っていくシーンは懐かしの「キング・コング」だ。

塔の上で追いつめられるウォレスの姿にトッティントン嬢が気がついてかばうシーンは「ノートルダムのせむし男」だ。
そして塔の上に追いつめられたウォレスを助けようと英国のラウンデルを巻いた複葉機に飛び乗るグルミットを、鉄十字を付けた赤い三葉機でヴィクターの愛犬が追いつめるシーンは「Great Waldo Pepper」だ。
(日本語のタイトル名は忘れたが、確か「華麗なるヒコーキ野郎」じゃなかっただろうか。グルミットはロバート・レッドフォードというわけだ)
また地底から迫ってくる巨大ウサギをヴィクターがライフルのスコープでとらえるシーンは「ジョーズ」だ。

まだある。
ウサギを野菜嫌いに変えようとして、ウォレスが発明品の人格転送機を自分とウサギにかけたところ、事故が起きてウサギに変身してしまうというシチュエーションはあの「ハエ男の恐怖」「ザ・フライ」がベースになっている。(これはFox映画か)
ヴィクターがライフルを振り回してウサギを撃つシーンは「シンドラーのリスト」がベースになっている。

巨大ウサギの気配に気がついたグルミットが車の中から外の気配を伺っていたら、突然車のボンネットの上に電飾の巨大な人参が落ちてくるシーンは「ジュラシックパーク」のオマージュになっている。
まだ他にもあったかもしれないが、たくさん「これでもか」というくらい過去の映画作品のオマージュが埋め込まれている。
いくつ気がついただろうか。
監督のニック・パークは明らかに「いくつ気がつくかな?」と観客に挑戦して楽しんでいるように見える。
こういう映画を観て映画好きがワクワクしないとしたらウソだ。

この映画は驚くべき手間と創意工夫をこらして作り上げられた驚異的な手がかかった作品であり、またグルミットは台詞は無いものの、目元と耳の動きだけで表情を作り出して、まるでサイレント時代の俳優のような「もの言う」演技をしているのも注目だ。
それを生身の人間がやるのだって大変なのに、粘土の人形にやらせているというところがすごい。

またこの映画は所々に「クスッ」と笑わされるようなウィットも一杯散りばめられている。
例えば例の「人格転送機」にウサギをかけてウォレスがウサギの「人格改造」をする実験の時に、彼は 「野菜キラ〜い」「ニンジン絶対食べな〜い」「ブロッコリも食べな〜い」
と間延びした調子で呪文のように唱える。
(ここいら英語版のピーター・サリスも日本語吹き替え版の萩本欽一もその声のトーンが絶妙だ)

その前段でウォレスは「野菜嫌いだ」ということが下敷きになっているのだが、ここは子供を連れてきたお母さんが「クスッ」と笑って
「あ〜、ウォレスは◯◯ちゃんと同じこと言ってるよ〜。大人なのにね〜」
と子供をからかう場面な訳だ。
子供とお母さん向けのくすぐりがちゃんと用意されている。

またラストでウサギから人間に戻ったウォレスが下半身を隠すためにチーズの空箱をかぶるシーンがあるがあの箱には
「Cheese, may contain nuts」
という但し書きが書いてある。
これは「ナッツ入りチーズ」というのと「この箱の中には馬鹿が入っている」という意味をかけているのだ。
アメリカ英語では馬鹿を「nuts」というが、イギリス人のニック・パークがそのニュアンスを面白がってわざとこうしたのだろう。

そして映画の最後のクレジットが全部終わったところで
「この映画では一切の動物が殺されたり虐待されたりしていない。」
という但し書きが出てくるのが最後のパンチだ。
そりゃそうだろう、全部粘土だもんね。

子供向けの映画だと思わないで、映画好きを自任しているなら一度は観てみて欲しい。
この強烈なパンチにかなりやられることは請け合いだ。

攻殻機動隊 Ghost in the Shell
攻殻機動隊 Stand Alone Complex‾Individual Eleven


(Ghost in the Shell劇場版)
監督  押井守
キャスト 田中敦子、阪 脩、大塚明夫

(Stand Alone Complex‾Individual Eleven)
アドバイザリー 押井守
監督  神山健治
キャスト 田中敦子、阪 脩、大塚明夫

きらびやかな舞台設定に幻惑される微妙な恋物語

アニメの話をもうひとつ。
この作品はそれこそネットに氾濫するアニヲタのバイブル的作品だし、アメリカを中心に「ジャパニメーション」が見直されるというムーブメントのとっかかりになった作品でもある。

だから、この映画や一連の作品の批評や裏情報サイトなんてのはネットにそれこそ氾濫しているし、「マトリックス」のウォシャウスキー兄弟があの映画を撮った時に「押井守に影響された」とか、それを裏付けるように日本での公開時にはまったく興行的に不発だったのだがアメリカでキッチュ的な人気を博し、ほとんど逆輸入のような感じで「日本に入ってきた」映画だとか、そういう情報もそれこそググったらどっさり出てくる。

そういう批評や情報をなぞっても仕方がないので、ここでは私なりに印象に残ったことをピックアップして私の「観た気持ち」を書き留めてみたい。

原作は士郎正宗の不定期連載のコミックだった。
士郎正宗について個人的に知っていることをいくつか書いておくと、彼は1980年代に「COMBAT」というガンマニア雑誌にイラストをたまに寄稿していた。
また当時「士郎正宗デザインの未来的マウス」が話題になったことがある。
彼は「銃器」「ミリタリー全般」「航空機」「コンピュータ」の造詣が深いということは当時から分かった。(このことは後の「攻殻機動隊」の重要な骨格になる)

それはともかく非常に寡作な人だったので一部のファンには渇望されていたコミック作家だった。
しかし残念ながら当時の私はこの「攻殻機動隊」の連載はリアルタイムではトレースしていなかった。
当時は星野之宣なんかにハマっていたと思う。士郎正宗はちょっとトガリすぎてて私にはついていけない感じだった。
それと未来のテクノロジーワールドがなぜかパンク色になるというのも私には馴染めなかった。
これはもろに影響を受けた「マトリックス」なんかもそうだったが。


だから私は劇場版に映画化された「攻殻機動隊 Ghost in the Shell」を原作を読まないで観た。

この映画が公開されたのが1995年11月。
監督は「パトレイバー」シリーズで気を吐いていた押井守だったが、前述の通り興行的には不発だった。
その理由は原作を読まないで「攻殻機動隊 Ghost in the Shell」を観た私にはよくわかるのだが、この映画はあまりにも観客に対して不親切だった。
例えば冒頭に、電脳同士で直接通信しているバトーと「少佐」の会話はこんな調子だ。

バトー「脳にノイズが多いな、お前」
草薙「生理中なの」
バトー「・・・」

この会話は設定の説明がないと面白さがまったく分からない。
この会話は「少佐」とよばれる全身を義体化した主人公が「女」であることを主張しているわけだ。
義体化というのは義足や義手のように人工的に作った身体を、オリジナルと置き換えることで生命を維持できるだけでなく、生身の体では実現できない能力を身につけることもできる。
21世紀も中盤に入り始めているこの時代には、健常者でもそういう目的で体を義体化しているという設定だ。
主人公の草薙素子、通称「少佐」は全身を義体化しており生身の部分はチタンの頭蓋骨の中の脳髄と脊椎だけという設定になっている。

ということはバトーは「全身義体なのに生理なんかあるのかよ」と突っ込みのひとつも入れたかったに違いない。
しかし女性の「生理中なの」というエクスキュースには男には抗いがたい「ゲバルト」がある。
これをいわれると
「ああそうかい」
と黙り込む以外に何もできないのが男なのだ。

そういう設定を知っていると、この会話はこの二人の微妙な関係を察することができるやり取りなのだが、この映画ではおぼろげながら設定が説明がされるのは物語が半分近く進んでからだ。
主人公が脳髄以外は機械の体だということもずっと後の方で分かってくる。
この不親切さが映画を観た者を完全に二分した。
原作を読んでいて、設定をよく知っている観客は過剰に説明的にならないこういうぶっきらぼうさを歓迎したようだ。
ところが原作を読んでいない、したがってこの物語の前提になっている設定がほとんど分からない観客には進行する出来事も会話の意味も理解できなかった。

実は私もこの映画を初めて見た印象は
「非常に緻密な描画で綴られた意味不明な禅問答集」
という印象を持ってしまった。
要するによく分からなかったのだ。

この「意味不明な禅問答集」という感じは後にテレビシリーズを観ていても感じた。
しかし庵野秀明のように元々意味なんか無いのにいかにも意味ありげに言葉を連ねるのと違って、この士郎正宗、押井守という組み合わせはちゃんと意味があって、そういう言葉になっているのじゃないか、意味をトレースできないから禅問答みたいに聞こえるんじゃないかと感じていた。
実はずっとこのアニメシリーズが気になっていたのは、緻密な描画や電脳世界という世界観の魅力もさることながら、やっぱり
「全て意味がありそうだ」
と感じると気になって仕方がないという魅力だったような気がする。

テレビシリーズの「Stand Alone Complex」は逆に話が拡散していて、説明的ではあるのだが毎回欠かさずに観ていたわけではないのでやはり途中で分からなくなってしまった。
でも今回、「Stand Alone Complex」の第2シリーズの「個別の11人(Individual Eleven)」のシリーズをダイジェストして一本化した作品を通して観て(それでも3時間近くあるのだが)何か分かった気がするので、この作品について書いてみたくなった。


まったくアトランダムにまず「Ghost in the Shell劇場版」の方の会話をいくつか拾ってみる。


草薙「まだリボルバー使ってるの?」
トグサ「俺はマテバが好きなの」
草薙「バックアップされる身としては、好みよりも実効制圧力を重視してもらいたいわね。危ない思いするのはこっちなのよ。ツァスタバにしなさい。」

トグサというメンバーは、義体化されたメンバーを集めて強行作戦だけでなく完全に電子化された情報戦も行うという特殊任務を与えられた「警視庁公安9課」というセクションの中でただ一人ほとんど全身が生身の新入りという設定になっている。
どうやら刑事課から「少佐」自身が引き抜いてきたらしい。
このご時世に義体化をほとんどやっていない保守的な男だから、使用する銃器も「マテバ」というヨーロッパのメーカーの特殊なリボルバーを使っている。

リボルバーとオートマチックどちらが実効制圧力があるか・・・
これは80年代に鉄砲が大好きな連中が、夢中になって議論していたテーマだ。
アメリカの警察は制服も私服も皆リボルバーを使っていた。
しかしヨーロッパはオートマチックだった。
この当時強装弾を15発も積んだ強力なオートが出てきて、だんだんリボルバー派は分が悪くなっていた。
6発撃ったら後は撃たれるだけのリボルバーと15発撃ちきっても一瞬で次の15発を装填できるオートと撃ち合いしたらどちらが有利だろうか。
しかし保守的なリボルバー派は抵抗する。
「オートは万一の故障が怖い。リボルバーはとりあえず6発は弾が出る。しかしオートは初段がジャムったら一発も撃たないまま撃たれる可能性がある」

懐かしい議論だ。
前述の「COMBAT」のような雑誌にそういう議論が散々書かれていたし、当然士郎正宗もそういう記事を見ていたろう。
トグサという人物は、この会話でキャラクターを説明されている。このこだわり方は「合理性」よりも「直感」を重んじるような人物だ。
そういうところのこだわりの強さは、同じような直感型人間のバトーにまで
「テメェのマテバなんざ、当てにしてねぇよ」
と揶揄されてしまうのだが。

ここで出てくる「マテバ」「ツァスタバ」などの銃器メーカーはヨーロッパに実在する。
物語に出てくる銃は、実在のものの未来形のような「ありそう」な形にデザインされている。
マテバは銃身が回転胴の下側にあるという世界でここだけしか作っていないような異様なデザインが特徴だ。
(リボルバーとしては異様だが、こういう形はオリンピック競技などで使うスポーツターゲットピストルにはよくあるレイアウトだ。だからそれなりにデザインに意味は無くもない)
ツァスタバは旧チェコスロバキアの兵器厰で、西側では工作が不可能なCZ75などの良質の銃器を作ることで定評があった。

テレビシリーズに出てくる「セブロ」は架空の銃器メーカーだが、そのデザインはベルギーのFNブローニングの影響を色濃く感じさせる。
銃器の選択を見ると彼らが野戦ではなく、CQB(クロスクォーターバトル)つまりインドアの接近戦を前提にしていることが分かる。

こういう実銃の知識があれば、ガンマニアとしても楽しめるだけでなく登場人物の背景や性格まで投影されて面白いと思う。
またこの作品が大量のガンマニア(特に女性の)を生み出したのは面白い。


未来の世界はネットで接続された電脳のネットワークの世界だ。
これは機械の強制力でそうなったのではなく、人々は情報を得るための利便性を追求して首にネットに接続するプラグを埋め込む手術を自ら進んで受けている。
そうした時にハッカー事件が発生する。
この物語のハッカーはコンピュータをクラックするのではない。
人間の脳を直接クラックする。
この「ゴーストハック」はこの時代には重大な違法行為とされているらしい。
ゴーストとは人を人たらしめている個人の性格とか、心とかそういうものを包括する魂のような未知のデータの揺らぎをそう呼んでいるらしい。
この時代には電脳化が完成して脳の活動は全てデータとして記録することができるようになったが、そのデータの中に潜む未知の心の軌跡だけは解明されていないらしい。
そしてこれの有無が機械と人間を分ける最後の境界線になっているようだ。

これがタイトルの「Ghost in the Shell」につながっている。
(このタイトルは「機械の中の幽霊」を連想させて面白い)


9課のメンバーはこの「人間をクラックするハッカー」を幇助していた男を身柄確保した。
男は
「俺は何も吐かないぞ」
と黙秘の意志を示すが、それに対してバトーが冷ややかに言い放つ。
「吐くだと? 自分の名前も知らないヤツが何を偉そうに」
この男もハックされて操られていたのだ。

この事件は人間を人形のように操る「男」を容疑者とする「人形遣い事件」と呼称される。


やがてこの容疑者の「人形遣い」は特定の個人ではない可能性が出てきた。
公安9課に逃げ込んできた「人形遣い」を名乗る義体は生きた脳細胞を一辺も持たないアンドロイドのはずなのに「ゴースト」を持っていることが判明した。
「人形遣い」は単なる愉快犯のハッカーではなく、自らを新種の生命体であると主張する。

人形遣い「コンピュータの普及が記憶の外部化を可能にした時に、あなたたちはその意味をもっと真剣に考えるべきだった」
人形遣い「私は情報の海で発生した生命体だ」


機械というものは全て人間の能力を拡張するために存在する。
牙を持たない人間は、肉食獣の牙のような機能を持つためにサヌカイトのナイフを発明した。
やがて走る能力を拡張するために自動車のような移動機械を発明し、投石能力を拡張するために銃器を発明した。
さらに飛行機を発明して鳥にしかできなかった飛行能力も身につけた。
そして20世紀半ばには人間の脳の能力を拡張するためにコンピュータを発明した。
最初のコンピュータは電子算盤という程度のものだったかもしれないが、やがてネットワークを確立してコンピュータはニューロンネットワークを思わせるような発達をしてきた。
それにしても人を人たらしめている脳をコンピュータが代理し始めるという問題は、人間のレゾンデートルに関わる問題を提起した。


それは漠然とした不安として現れ、コンピュータの人間への反乱という形で60年代から繰り返しSFでは描かれてきた。
ディスカバリー号の反乱を引き起こしたHAL9000型コンピュータだったり、スカイネットだったり「マトリックス」のアーキテクチャーだったり様々な名前が与えられてきた。
しかしこれはSFテーマとしては面白いのだけど現実にはあり得ない話だということも明白になってきた。

人工知能について京阪奈学研都市の研究グループに話を聞いたことがあるが、
「鉄腕アトムのような自分の意志を持っていてプログラムされていない自律的な学習能力を持つAIは現在ではまったく実現不可能で、向こう50年かかっても実現できるとは思えない。」
と技術者たちは語っていた。

つまり単体のコンピュータないしはプログラムが人間に背いて、人間を殺したり反乱を起こすなんていう一種の知性は、今の技術では作れないだけでなく、どうすればそういうものに近づくことができるかさえまったく見当がつかないということなのだ。

ところがネットならそれが可能になるかもしれない。
たとえばネットワークに人間の脳が直接アクセスしているとしたら。そこに人間の内部に係わる情報が大量に流れ込み、「外部記憶」を通じてネットワークニューロンに流出していくとしたら。
その人間の痕跡の情報と人間の意思の積み重ねによって、太古のアミノ酸の海の中に偶然生命が発生したように、ネットにまったく新しい電脳生命体が発生するかもしれない。

この映画は機械の人間に対する反乱という1960年代から散々描かれてきたSFの陳腐さから初めて脱出することができた作品だった。
そういう枯れススキの穂を幽霊に見立てるようなお話ではなく、現実に単体のコンピュータでは不可能だった新しい性格をネットワークは持ちはじめるかもしれないという可能性を暗示した話だ。
このテーマは陳腐になってしまったSFのマトリックス(母型)とはまったく違うものを描いている。
(そしてこの映画のフォロワーだったウォシャウスキー兄弟の作品が結局60年代の「機械の反乱」を引きずっていたのは微妙に残念なところだ)


そうなると人間と機械の差は何なのか、人間のレゾンデートルが危機にさらされることになる。
主人公の「少佐」はまさしくそういう反応をした。

「人形遣い」を見た「少佐」は憂鬱な顔をしてバトーに問いかける。

草薙「あの義体、私に似てなかった?」
草薙「私みたいな完全に義体化されたサイボーグなら誰でも考える、私はとっくの昔に死んでしまっていて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なのではないか、そもそもはじめから私なんてものは存在しなかったのじゃないか」
草薙「もし電脳そのものがゴーストを生み出し、宿すとしたら、その時には何を根拠に自分を信じるべきだと思う?」


ケストラーは著書の「機械の中の幽霊」の中で「心は単なる人間の脳の生理学的、機械的反応ではない」として、こういう一節を掲げている。

『生理学者は全体として、唯物論の見方をとり、すべての心象事象は脳中の「自動電話交換」の働きに還元されると考えがちであった。ところが最近五十年間に、事情はほとんどまったく逆転した。
オックスフォードの大物たちが物笑いの種にしている間に、脳の解剖学、生理学、病理学、また外科医を生涯の仕事としている人たちは、ますます逆の見解に傾いていった。それは次のようなあきらめの言葉で要約することもできよう。
「おお、脳は脳、心は心、相会うすべは知らない」』

しかしこれは逆説的に言えば、人間の心を持ちうるものは人間の脳と同じような容器を必要とするとはかぎらないということも言える。
この物語は人間の心と機械の心の出会いの可能性と、人間の心が肉体と別れを告げる可能性を示唆しているかもしれない。


これが物語の縦糸なのだが、このシリーズの魅力は横糸として配された「淡い恋」の物語なのだ。

この「情報の海で生まれた生命」を自称する「人形遣い」は生命であるからには生殖をしないといけない。
生命の最大の使命は子孫を残すことなのだ。
そしてその子孫はオリジナルの単純なコピーではいけない。
コピーは所詮絶滅のリスクを増大させるだけだ。
実際の生命もバクテリアの単純な無性生殖から雌雄の有性生殖に進化した。
これは単純なコピーを止めて遺伝子の偶発性による多様性を獲得して絶滅を防ぎ、進化のスピードを上げるためだ。
この「情報の海の生命」も同じことを考えた。


物語では「少佐」たちとは別の政府組織「外務省6課」なる組織の連中がこの「人形遣い」を回収に来るシーンがある。
(この時代政府機関は異常に肥大し、各省庁が非公表の諜報活動、公安活動をしているようだ。この他にも「内調」なる内閣府の諜報機関や、自衛軍の3軍からも独立した「レンジャー4課」なる特殊諜報部隊も存在する。そしてそれぞれがお互いに牽制しあって、微妙に敵対しているようだ。ジョージ・オーウェル的官僚世界ではないだろうか)

9課に入る時に彼らはこういう会話をする。

「『彼』はなぜここに逃げ込んだんだ?」
「『彼』のすることだ、我々には想像もつかない理由があったのだろうが、もしかしたら片思いの相手がいたのかもしれん」

この男は冗談のつもりで言ったようだが、偶然にもこれが真実を言い当てていた。
「人形遣い」は「少佐」にまさしく恋をしていたことが物語の終焉であかされる。
そして「少佐」はこの生命体の「恋」をあっさり受け入れ「クロマ」へとメタモルフォーゼしてしまう。
縦糸の結末はこの「少佐」という通称の女性サイボーグの覚醒と進化につながる。
新浜沖の船の上で「少佐」とバトーが聞いた言葉はほとんど聞き取れないが、ラストで「少佐」自身が明かす言葉の続きだったのだ。

「童の時は語ることも童の如く
思うことも童の如く、論ずることも童の如くなりしが
人となりては童のことを棄てたり
今、我ら鏡持て見る如く、見るところおぼろなり
されどかのときには顔を対せて相ま見えん」
コリント人への第一の手紙 第13章11節

これは新約聖書からの引用だ。
そういえば押井守は「パトレイバー」のシリーズで旧約聖書から
「その言葉通じるを得ざらしめん」
という有名な一節を引用していた。
こういうレトリックがお好きなのか、あるいはひょっとして本当にクリスチャンなのか。


このシリーズには頻繁に
「制約を離れ更なる上部構造にシフトする」
という言葉が使われる。
これはテレビシリーズでも「クゼヒデオ」が何度か言っていた。

これはもし本当にこのアニメがケストラーの「機械の中の幽霊」をベースにしているのであれば、「二人の時計屋」のたとえ話を私は連想してしまう。

「機械の中の幽霊」でホロンという概念の説明でこのたとえ話が出てくる。
『二人の兄弟の時計屋が片方は繁盛し、片方は店は寂れてもう片方の雇い人になってしまった。
その理由は非常に簡単なことだった。店を閉めた方の時計屋は部品を組み立てる時に一個ずつの部品から全体を組み立てようとした。だから途中で邪魔が入ると、全て最初からやり直しになった。もう一人はいくつかの部品を組み立ててサブセット、さらにそれをいくつか組み上げてサブシステム、さらにサブシステムを組み上げて完成という組み立て方をした。
それで1000個の部品を使って100の組み立てプロセスごとに平均1回邪魔が入るとして、二人の作業能率は4000倍も差が出た。
単純なものから複雑なものを組み上げる時に、途中に階層的な構造を持てば効率的になる。生物の進化も全てそうなっている。より高次な構造を持つには階層的なサブシステムを持つ方が進化も速い』


これがネットのどういう構造のことを差しているのか、抽象的すぎて良く分からないのだが、「人形遣い」も「クゼヒデオ」もさらに複雑で高次元な生命体に進化する、あるいは社会組織へと革命することを目指すために、自らはそのサブシステムになろうとしたのかもしれない。
それを目指して、特に「人形遣い」はそのために「少佐」に近づいてきた。
「少佐」はその「愛」を感情の揺らぎもなしにあっさり受け入れた。
しかし「少佐」に思いを寄せるもう一人の男はどう思っただろうか。

冒頭のやり取りを「少佐」とかわしていた「バトー」のことだ。


このバトーという登場人物はなかなか魅力的だ。
癖のありそうな面々ばかりの9課の中でも一番の強面だ。
修羅場もくぐっているようだし、レンジャーとしての自分の能力にプライドも持っている。およそ女性に優しい言葉なんかかけたこともないだろうし、そういうことは「オレのガラじゃねえよ」とぶっきらぼうにいうかもしれない。
しかし「少佐」という全身義体の上司に「女性」を感じているただ一人のメンバーでもある。
トグサは
「あんな頑丈なお姫様にエスコートなんか要るのかねぇ」
なんていっている。

それに対してバトーという人物は顔を合わせると憎まれ口を聞いているが、その行動はまるで忠犬のように「少佐」をエスコートしている。
それだけでなく、明らかに「少佐」に思いを寄せている。
冒頭の「生理中なの」というやり取りは、そういう感情を知っていて「少佐」という女性もわざとそれをいたぶるような、粉をかけるようなことを言って楽しんでいるのだ。
少しはいとおしく思っているかもしれない。
いずれにしても他のメンバーにはこんなことは言わないに違いない。


それがテレビシリーズの「Stand Alone Complex‾Individual Eleven」ではもっとはっきりする。

どういう場面でも心を揺らさない冷たい女に見える「少佐」だが、「出島事件」で出会った「クゼヒデオ」に対してだけは違った。
「クゼヒデオ」は元自衛官だが、PKO任務に対するマスコミや世間の偏見に嫌気が差し脱走、最下層人民に溶け込むうちに革命を志すが、そこにも失意を感じているという人物だ。


クゼ「水は低きに流れ、人もまた低きに流れる」
クゼ「力を持てば誇示したくなり、武器を持てば使ってみたくなる」
クゼ「もっとも俺をがっかりさせたのは人々の無責任さだった。自分では何も生み出すこともなく、何も理解していないのに、自分にとって都合のいい情報を見つけるといち早くそれを取り込み踊らされてしまう集団。ネットというインフラを食い潰す、動機なき行為がどんな無責任な結果をもたらそうとも何の責任も感じない無責任な人々。俺の革命はそういう人間への復讐でもある。」
クゼ「そんな彼らも口当たりの良い情報に出会うと都合のいい方に流れてしまう。人間は元々低きに流れるものらしい。」
クゼ「人の上部構造への移行、人とネットの融合、これがオレの救済と復讐だ。」


こう自らの「革命の精神」を語る「クゼ」の思想はまるで「アナーキストに転向したナロードニキ」のようだ。そしてこれが人心を荒廃させているネットの現状を一番よくとらえている部分かもしれない。
このストイックな「クゼ」の心に触れたとたんに「少佐」の心は大きく動揺してしまう。

草薙「それに私は彼を知っている。」

ここから後は「少佐」はバトーたちが話しかけても生返事を繰り返すばかりで、バトーに
「初恋の相手に出会っちまったガキみてぇだな。」
と言わせるほど心ここにあらずの状態になってしまう。
「少佐」が唯一「恋」をした瞬間かもしれない。その理由もこのシリーズでおぼろげながら説明されている。
そして心穏やかでないのはバトーだ。

択捉でバトーは単身「クゼ」を追いつめる。
その時に言い放った、
「狙いはテメェの首ひとつだよ」
に思わず「違うだろ!」と突っ込みを入れそうになった。
作戦の第一目的は「プルトニウムの確保、難民がプルトニウムを入手することを阻止」で、「クゼ」の身柄確保は第二目的だったはずだ。
バトーは完全に作戦の目的を間違えている。というよりも完全に私情をはさんでいる。

でもそういう感情に翻弄される登場人物はやっぱり魅力的だ。
このシリーズは「少佐」のあるいは「バトー」の、あるいは「人形遣い」の「恋」の物語なのだ。
そう思うと難解だと思った最初の作品も含めて非常に分かりやすく、一本筋が通った作品に見えてきた。

(ところでバトーに追いつめられた「クゼ」はなんと高速小口径弾の連射を手のひらでかわし、逆にバトーを行動不能にしてしまう。そして「やられちゃったねぇ、ダンナ」と冷やかすトグサにバトーは「どうってことねぇよ」と不機嫌にむくれてみせる。なんとなく熱い思いを人知れず胸に隠しながら、その思いは報われないというバトーのシチュエーションを象徴するような流れが高速で続く。ここいらの人物描写の流れのスピード感には魅入られる)


冒頭にも触れたように士郎正宗も押井守も「銃器」「ミリタリー全般」「航空機」「コンピュータ」に造詣が深いクリエータだ。
だからこの物語の細部にはそういうディテールがたくさん盛り込まれている。

支援ヘリパイロット「IFFに応答しないヘリが3機接近している」(攻殻機動隊 Ghost in the Shell より)
これは1980年代より導入された敵味方識別コード(Identification Friend or Foe)のことで、暗号化されたこの電波敵味方識別は音速を超える射撃戦で相手を視認するよりも先に引き金を引かなくてはいけなくなったために軍用機に導入された。
IFFに応答しないということは、外国籍機なのかあるいは身分を明らかにできないわけありの「無国籍機」なのか、いずれにしても「味方」ではないということだ。

合田「哨戒機を派遣してECMを展開、スタンドアローンの状態にすれば難民は勝手に暴走しはじめる」(Stand Alone Complex‾Individual Elevenより)
ECMとは対電子戦(エレクトロニックカウンターメジャー)、つまりレーダーや通信などのかく乱を目的とした哨戒機で、これは爆弾も銃も積んでいないが、敵の通信だけを選択的に無力化する近代航空戦ではもっとも強力な兵器だ。
「クゼ」にネットを通じて接続している難民たちは、無線を通じでコンタクトしているようなのでこの目論見通り「指導者を失った」難民たちは暴発しはじめる。
これに危機を感じた「クゼ」は手練を何人か連れて哨戒機をスティンガー(ハンディ対空誘導ミサイル)で撃墜して「革命」のイニシアティブを取り戻そうとする。

また、ファイヤーウォールのようなパッシブな防壁ではなく、ハッカー攻撃に対して報復的に相手の回路や脳を焼いてしまう「攻性防壁」。

相手の無線を傍受して偽情報を逆流させるために、通信コードを特定することを「枝をつける」といってみたり、現在使われていないがこの時代には発生しているかもしれない隠語やテクニカルタームなど細かいところまで設定が考証されている。

また意外にコアなファンが多いのが「タチコマ」。
このAIでコントロールされたクモのような姿をした機動戦車は榴弾砲やチェーンガンを装備する強力な戦闘マシンだが、子供のような声でしゃべり、哲学的な会話が大好きで何匹か集まると「存在」について議論しはじめる不思議なアンバランスさを持ったキャラクターとして描かれる。
そして「Stand Alone Complex‾Individual Eleven」のラストでは「少佐」の命令に違反し自らを犠牲にし人々を救おうとする。
その壮絶なシーンに流れるのが、子供のような声の「ぼくらはみんな生きている」の大合唱というのが可笑しくてやがて悲しい。


こうした細かい考証に裏打ちされた設定が生み出すきらびやかなストーリィが高速で続くのに幻惑されてしまうが、実際はこの物語の核は人、あるいは機械が生み出した心の機微なのだ。

レビューというにはあまりにも長文になってしまったが、この2作を観終わって書きたいことが洪水のようにあふれてきたので、実はその一部しか書き留められていないのだが一応区切りにする。