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なんちゃってなIT用語辞典6

多分何の役にも立たないIT用語辞典
How that IT term sounds funny


ICタグ

IC tag

日本のエレクトロニクス産業の目玉になりそうな製品が、今年は続々登場してきそうだ。

別項でも解説するが、小型の燃料電池は今年あたりブレークスルーしそうだ。
IPv6などの通信基準を搭載したネット家電も今年のうちに各メーカーから続々発売される。
また第3世代の携帯電話も今年、新しいステージといえるサービスを続々開始する。
インターネット後進国といわれた日本はいつの間にかブロードバンドの通信料が世界で一番安い国になった。
ブロードバンドの普及率もかつては隣の韓国にはるかに引き離されていたが、今や日本が抜き返すというところまで来ている。
それをにらんだ新しいネットワークサービスも出てくるだろう。

日本の電子技術はウィンテルに牛耳られて完全に停滞していた時代が長く続いたが、 これからは日本のモノ創りはやはり他の国とはひと味違うというようなものが次々出てくるだろう。
しかも今いくつか挙げたものは、みなIT先進国を自負していたアメリカを凌駕している。

これからのITの先端技術の取材はシリコンバレーではなく、日本に目を向けなくてはならなくなる予感がする。


ここでもうひとつ注目したい技術にICタグがある。

ICタグは2ミリ角から 0.3ミリ角というようなものまで登場してきている。
要するにそういう独立したチップをあらゆるものにつけて電子的な「タグ」(荷札)として活用しようという技術だ。

このチップは電源を必要としない。
だから一度つければ半永久的に使える。
その原理はこういうことだ。

音叉をふたつ用意してそのひとつを鳴らす。
すぐに鳴らした音叉に手を置いて音を停めると、もうひとつの音叉が共鳴して鳴っていることに気付く。
これを電磁波で同じことをやるとどうなるか。
ICタグの読み取り機でパルスを発射する。
するとICタグのチップがそのパルスに共鳴して自分の回路に仕込まれた信号を発射する。
読み取り機はこの残響を読み取って識別に使うので、チップにはバッテリは必要ない。
これを電磁誘導という。

この構造を持ったおかげでICタグは非常に簡単な構造にできるし小型化が可能になった。
量産化されれば一個数十円から数円というコストダウンが可能になる。

これで何ができるかはユビキタスの項でも書いたが、あらゆる流通商品にこれをつけて 流通の合理化にも使える。
医療現場ではカルテや薬品にもチップを仕込むことで、医療過誤を防ぐことができる。
高いと不評な高速道路のETCも数十円というコストに切り下げることができるかもしれない。

その利用法はいくらでも考えられる。

今その規格化についてふたつの流れがある。
ICタグを電子バーコードとして使うRFID(Radio Frequency IDentification)とチップ自体に情報機器としての機能を持たせるユビキタスIDチップだ。

バーコードのかわりに使うRFIDも十分利用価値があるだろう。
バーコードは流通の合理化の切り札として今全産業に広まっているが、実はそのコード資源の枯渇がいわれはじめている。
枯渇すると牛乳を注文したのにグランドピアノが配達されるなどという笑い話のようなことが起きるかもしれない。
しかしRFIDのコードは128bitが標準になりそうなので、その識別コードの数は2の128乗個というとんでもない数になる。
このコードを全て使いきってしまうまで人類は絶滅せずに生き残れるかというくらいの膨大な数だ。

ユビキタスIDチップはさらに簡単な情報はこのチップに上書きできるようにするという機能が乗る。
これでネットワークから情報が引き出し難い、電波状況が悪いところ、ネットワークにつなげることができない僻地でも必要最低限の情報は引き出せるという機能が付加される。
また不正コピーや不正記入ができないようなセキュリティも組み込める。
このチップのOSのeTRONは最初からセキュリティ機能が重視された仕様になっている。

この実証実験がこの1月、神奈川県内のスーパーで始まった。
農家から出荷される3万個の大根、にんじんなどの農作物にすべてチップをつけ、スーパーの店頭に備え付けられたユビキタスコミュニケーターと呼ばれる端末に、農作物をかざすだけで消費者はその野菜の来歴を全て見ることができる。
誰が作った野菜なのか、どういう土地で作られどれくらいの等級の野菜なのか、農薬はどういう種類のものが何回使われたかなどの情報が全て出てくる。

このふたつの方式は競合してどちらが生き残るかということにはならないだろう。
なぜならRFIDのフォーラムに参加している企業の大部分はユビキタスIDチップを推進している Tエンジンフォーラム にも参加している。

どういう場所でどちらのチップを使うのが合理的かというのはこれからの実証実験で検証されるだろう。
どちらも適材適所で普及していくに違いない。


やがてそういう時代が来るといわれていた夢物語が急速に現実のものになりはじめている。






P2P

peer to peer

インターネットというものはどういう構造になっているか正確に説明できるだろうか?

例えばホームページを作って公開してしまうと、人に自分のコンピュータの中身を覗かれて個人情報も抜かれてしまう危険があるんじゃないかという疑問を持ったことはないだろうか?

あるいはメールが来ているが、自分のコンピュータの中のメッセージを消してしまうともうメッセージは読めないと思っていないだろうか?

また会社のコンピュータで受信してしまうと、自宅のコンピュータではそのメールは受信できないと思ったことはないだろうか?

インターネットにどこからでも繋がるから、海外に行ってもインターネットは自分のモバイルPCで見られると思っていないだろうか?

これらはインターネットの構造を知っている中級者以上の人にとっては笑い話のような疑問だが、しかし解らない時はこういうことが解らないものだ。


これらの疑問の答えはこうだ。
ホームページを公開するというのは、自分のコンピュータの中身を公開するのではなく、web上のサーバにホームページの素材のコピーを上げてそのコピーを公開する。
だから自分のコンピュータはなんら危険にさらされないわけだ。

(アップロードという言葉を使う。webサーバから何かを落としてくるのがダウンロードで、逆に自分のコンピュータからwebサーバにあげるのをこう言う)

ふたつめのメールの疑問もメーラの設定で自分のコンピュータの中のメッセージを消してもメールサーバにメッセージが残る設定にすればメッセージは残る。

また会社のPCでメッセージを受信してしまっても、受信後にメールサーバにメッセージが残る設定にしておけば自宅のPCでも同じメッセージを受信できる。

(普通大抵のメーラは受信後もサーバにメッセージが残る設定になっているのだが、Microsoft社のOutlookexpressとかいうメーラはデフォルトでメッセージを削除するというお節介な設定になっている。
それがこういう誤解の元になっているように思う)

この勘違いはメールは自分のパソコン宛に来るというふうに誤解していることが原因だ。
実際はメールは自分のパソコン宛に来るんじゃなくて、自分が契約しているインターネット上のメールサーバに来ている。
メールを読むというのは、このメールサーバに来ているメールをダウンロードして自分のパソコンにコピーしているだけだ。

インターネットに接続するにはまず接続ホストというコンピュータにアクセスしなくてはいけない。その接続ホストまでの回線がダイアルアップだったり、ADSLだったりするわけだが、有料プロバイダだろうが無料プロバイダだろうが、ホストコンピュータを通じないとインターネットには入ることはできない。
海外で契約しているプロバイダがあれば海外でもモバイルで接続できるが、そういう手続きをしていないとwebには入れない。


これらの例を挙げたのは何が言いたかったかというと、インターネットとユーザのコンピュータの関係を説明したかったということだ。
インターネットのような広域ネットワークをWAN(Wide Area Network)というが、WANと個人の、あるいは会社のパソコンは直接繋がっているわけではない。
これはADSLだろうとFTTHだろうとそういう常時接続でも同じなのだが、

ユーザが使っているパソコンはすべてインターネットサーバを通じてインターネットに繋がっている。

ホームページもwebサーバに挙げているし、メールもメールサーバに来ている。ネット接続もプロバイダの接続ホストサーバを通じて繋がっている。

こういう構造をサーバ/クライアントという。
ユーザのパソコンを「クライアント」と呼ぶ。「クライアント」は必ず「サーバ」を通じてネットのサービスを受ける。
ユーザのパソコンを直接インターネットにつなぐことはできなかった。かつては。


ところがこういうインターネットの構造を打ち破る動きが現れている。

ピアトゥーピア(P2P)と呼ばれる新しいネットワークの姿だ。

P2Pで最初に有名になったのは「ナップスター」と「グヌーテラ」だ。
このふたつのサービスは音楽のファイル共有として悪名を馳せた。

P2Pは自分のパソコンの内容を直接WANに公開できる。
サーバを通さないのでピア(個別)トゥーピアという。

これで各人が持っている音楽ファイルを自由に公開してお互いが持っているファイルを交換することが可能になった。

音楽産業は音楽の著作権を守りたい。
アメリカのレコード会社は「ナップスター」に訴訟をかけてこの機能を停止させた。
「ナップスター」は厳密にいうと完全なP2Pではなく、サーバを中心にしたネットワークだから、そのサーバをたてているナップスター社を訴えることで、サーバを停止させることができた。

しかし問題は「グヌーテラ」だ。

「グヌーテラ」(gnutella)はグヌーテラクライアントアプリを起動している全てのコンピュータがサーバと同じ役割をしている。
つまり完全なピアトゥーピア通信を実現している。


もちろんその目的は違法な音楽ファイル交換だけではないから、クライアントアプリを入れているコンピュータの所有者を全て訴えて起動できないようにすることは不可能だ。
しかしグヌーテラにはファイルの中身をフィルタリングする機能なんてないからその中には、音楽ファイルの共有も含まれてしまう。

3年前にこのグヌーテラを開発したジーン・カンが日本で講演した時に、インタビューする機会があった。
実際に会った彼は予想に反してまだ23歳という若いアジア系のアメリカ人で、学生だといわれても信じてしまうような幼さが残る顔立ちをしていた。

その時の彼の話は以下のような内容だ。

「インターネットはサーバクライアントという構造から解放されることで真に水平な構造を持つことができる。誰からも検閲されることがない完全に民主的な情報交換が可能になる。
どんな強権的な政権でも、

全てのコンピュータの所有を禁じることなくグヌーテラを停止させることはできないだろう。そして現在の情報化社会で全てのコンピュータの所有を禁じるなどということは、その社会の自殺行為だ。」


彼の講演に対して会場からはやはり音楽著作権を侵害しているのじゃないかという質問が殺到した。それに対して彼はこう冷静に答えた。

「覆水盆に返らずだということをそろそろ認識した方が良い。
それに音楽が著作権料を要求するなどということは昔からの習慣のように錯覚している人が多いが、実はこの1世紀足らずのことで、本来音楽というのはそういう性格のものではない。
音楽家はその演奏に対して対価を要求したのであって、著作権などという抽象的なものに対してではない。
グヌーテラはこうした音楽の歪んだ歴史をもとの姿に戻す力を持っている。」


当然この答えに喝采する人もいれば、納得がいかないという人もいた。

音楽著作権法は悪法だと思う。
この法律があるために音楽家は人の曲を自由にカバー演奏することができない。

ポールマッカートニーはビートルズ時代の作品の大部分を作曲したにもかかわらず、その著作権を管理する会社がTOBされてしまったために、自分が作った曲を自分のコンサートで歌うこともできない。
これが「アーティストの権利を守る」音楽著作権法の実態だ。

音楽の進歩の歴史を見ると明らかだが、音楽は多くのアーティストがお互いに刺激しあってお互いの作品をカバーしあうことで新しい音楽を生み出してきた。
しかし今はそれがほぼ不可能になってしまった。
音楽家はカバー曲を演奏しようとすると、その作品の著作権者、隣接著作権者を調べ挙げてその許諾を得なくてはいけないという、非創造的な事務処理に忙殺されることになる。
ジャズなどというジャンルはこれでは成立しなかったはずだ。
今日の音楽の停滞は、著作権法と全く無関係だとは誰もいえない。
しかし悪法も法也りだということもいえる。

P2Pは音楽以外にもこれまで考えられなかった全く新しいネットワークの恩恵をもたらす可能性がある。
現在のパソコンは、すべてひとつづつにOSがインストールされ、アプリケーションがインストールされているというスタンドアローンな構造になっている。
しかしそれはパソコンがワープロとして使われていた時代の構造をそのまま引きずっているということだ。
オンラインアプリケーションやOSが実現すれば、1社のOSに世界中が牛耳られて世界が一人の利益のために好きにされているという今の状況が打破されるかもしれない。


音楽著作権は音楽家を守るためというよりも、音楽産業を守るためにこれからも機能していくことだろう。
しかしそれは音楽の進歩とは全く無関係だ。
このP2Pがどういう風にこの状況に風穴をあけていくのか注目だ。
音楽業界はいつまでもインターネットの普及に反対するような守旧的な動きをするのではなく、こうしたネットワークを利用する新しいビジネスモデルを考え出すべき時に来ている

ましてやCCCDなどという規格外のCDを作って従来からの音楽愛好家に不具合という形で迷惑かけているなんていう姿は愚鈍の一言につきる。




ジーン・カンは最後にこう付け加えた。

「グヌーテラネットワークは完全に自立した生き物だ。もはやこのネットワークを停止させることは私にもできない。こういうネットワークが生まれて進化していくことはインターネットの歴史の必然だ。私はこの歴史がこれからどう動いていくのか見守ることしかできない。」



追記

ジーン・カン氏はその後 2002年の6月に鬱病が悪化して自殺した。
彼は自己紹介サイトに「不幸な人間の代表、失敗が専門」と書き込んでいたそうだ。
しかし彼が何をさして失敗と言っているのか、彼を知る人々は誰にも解らないということだ。
グヌーテラネットワークはますます大きな勢力に成長している。
彼の予言どおり、この勢力がインターネットの歴史をどう塗り替えるかは予断をゆるさないというところに来ている。
しかし彼自身はその歴史を見守ることなく逝ってしまった。
心からジーン・カン氏の冥福を祈る。






LED

light-emitting diode

何年か前に青色の発光ダイオードが実用化されたという話題が世間をにぎわせた。
青色がなぜ話題になるかというと、それまでは赤と緑しか実用化されていなかったが、青ができることで光の3原色が完成することになる。
最近ビルの壁面などで見る電光掲示板は驚くほど画質が向上して、遠目にはハイビジョンテレビのような精密な画像が再現できるようになった。

これができるようになったのは青色LEDが実用化できたからだ。


ダイオードは昔からあった。
昔のラジオ工作少年にはなじみ深い半導体だ。整流器、検波器の端子として使う。
こういう役割は古くはコンデンサの仕事だったが、ダイオードという新しい端子ができることで、小型化、省電力化が可能になった。
ダイオードというものはそういうものだと思っていたが、今から28年前に発光ダイオードをレベル表示に使ったカセットデッキというものに出会って驚かされたことを思い出す。

それまでのカセットは円い窓のレベルメーターの中で細い針がピンピンと動いているものだった。
LEDを使ったレベルメータはそういう磁石式のレベルメータよりもはるかに反応が速く、ピークを一瞬に検出する驚くべき性能を持っていた。
(それまでの磁石式のメータは針の動きを見てピークを推測するしかなかった)

それに見た目も赤や緑のライトがピカピカ光って華やかだった。
音楽用の機器はあっという間にLEDを使ったメータに置き換えられてしまった。



それ以来赤や緑があることは解っていたが、その2色しかないのでそれ以外の色を出すには色のついた透明カバーをかぶせるしかなかった。
これでは低電力で光を出せるLEDのメリットが活かされていなかった。

しかしこの青色LEDが登場した。
このLEDは巨大なビジネスに繋がり、開発した会社は急激に業績を伸ばしたがこのLEDを開発した技術者と会社どちらに特許権が帰属するかという裁判が起きるというおまけまでついてきた。
しかもこの裁判で会社の権利は制限されるという法律的判断が世間を騒がせた。
いろいろ世間を騒がせる技術だ。


ところでこの青色LEDとは全く別の方法で巨大ビジョンを実用化しようとしている企業を取材したことがある。

和歌山県の雑賀製作所だ。
この会社は最近普及しはじめている無洗米を作る機械の発売元として、精米業界ではつとに有名になっていた。
この会社の雑賀社長はなかなかのアイデアマンで、次々とアイデアをひねり出しミカンの甘さを自動計測する味度メーター、農作物の自動仕分け機など次々とヒットを飛ばしていた。

その雑賀社長が「道楽だ」と謙遜していたが、この企業は「サイカ研究所」という財団法人を持っていて、ここで農業製品に限定せずにあらゆる最新技術を独自のアイデアで開発するということをやっていた。

そこで見せられた数々の試作品の中で最も強烈な印象を持ったのが横幅5メーターほどの巨大ビジョン、「サイカビジョン」だった。


しかもその原理がすごい。
もちろん雑賀社長だってLEDは知っていたはずだが、そういうものに頼らず機械的な構造で巨大ビジョンを実現しようとしていた。

その壁面には赤、青、緑の電球がびっしり並べられその前には電球ひとつに一個ずつ蝶番のついたふたがつけられていた。
そして映像信号に連動してその蝶番付きのふたが空気圧で跳ね上げられるという構造になっていた。
これでも10メートルも離れてみればかなり鮮明な画像が実現していた。
原理は実に単純というか、どちらかというとローテクなのかもしれない。
しかしこういう鮮明な巨大画像は、後に青色LEDが実現するまでは誰も見たことがなかったはずだ。
そういうものを一足先に見られたのもすごい。

この機械の問題点は構造が大きいのでコストダウンが難しいのと、長時間映像を映していると電球が切れるのでメンテナンスが大変だということだ。
雑賀社長はこれを甲子園などの野球場にすえて巨大ビジョンを映すという夢を語ってくれた。


結局そういう夢は青色LEDの実現によって、夢に終わってしまった。
けれどこういう泥臭いモノ創りをやっている技術者が日本中にいるんだと思うと、清々しいような気分になってしまった。
新しい波は、こういう泥臭いアイデアからは生まれないなんてことは絶対ないはずだと思う。



2004年1月8日













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