たまたま調べもので検索をかけていて「ねこめしにっき」さん2001年の11月の記事、
「到達点の WinXP と混迷期の OSX」
というタイトルのエントリーに行き当たった。
面白い記事なので、ちょっと引用したくなった。
『Windows は「手順列記型」。 MacOS は「概念類推型」。月並みでよく言われてきたコトなのでイマサラですがが、それぞれの GUI の特徴を端的に表すとこうですね。
「手順列記型」は、今可能な操作を列記することで、ユーザを目的へ最短距離でみちびく。「概念類推型」は、全体像と事の因果を把握するための枠組みを提供しつづけ、目的までの最短操作をユーザに自立判断させる。前者は、最短距離の手順をあらゆる場面で示すために、おなじ目的を叶える道筋は何通りもある。後者は、目的を叶えるための道筋をあえて限定して、どこに行って何をすべきかを見つけやすくする。「至れり尽くせり」と「削ぎ落とし」。』
このあたり確かにそうだと思う。
全ての使い道を想定して、というよりも使い道なんか想定もせずにとにかく可能な選択肢、設定項目を羅列的に用意するWindowsとある目的の手順のために最適な設定だけをほぼプリセット的に用意してあるMacというのはそういうことかも知れない。
ここいらはそれぞれのGUIの根本にかかわる。
どちらが好きかは各人の好みだが、ある使い方にはまればMac的なGUIは理解もしやすいし、手順も省略されて結果を早く得られるが、想定外の使い方には一切対応できないという融通の利かなさもあってそういうところがWindowsの有利さなのかも知れない。
だからこの文章に続く、
『ウチのオカーチャンみたいな、はじめてパソコンに触るというような人は、たぶん前者のほうが目的達成の成功率は高いとおもう。ただし順路が確実に示されて、ルートから外れなければのハナシ。後者は自分で順路を探さなければならない。
ある程度そのシステムに慣れたユザは、列記された順路から道を見つけることは減って、それまでの過去の記憶を元に行くべき道を類推するよーになる。こりがいわゆる「直感的操作」ってやつでして。マクの操作は日々その類推訓練を受けてるとおなじよーなものだから、その能力を得るまでの所要時間が比較短い。』
という文章は私はちょっと意見が違うのだが、でも結局その差異という意味では適切な捉え方だと思う。
ちなみに「直感的」ではなく「直観的」が正しい。
これは人間工学に関わる概念なのだが、車の運転はドイツ車だろうが、アメ車だろうが、国産車だろうが皆同じ原則で作られている。
例えばハンドルを時計回りに回せば、右に曲がる。
反時計回りに回せば左に曲がる。
これは当たり前のように感じるが、実際には例外が無いというのが人間の直観的理解の存在を示している。
本能的に車が右に曲がる時には、人間は右からの遠心力に備えて体を右に傾ける。
だからハンドルも右に回すのが自然な動作だ。
それに運転中は視界に入っているのは、ハンドルの下部ではなく上部だ。
その上部を右に送れば右に曲がる、左に送れば左に曲がるというのは理屈ではなく人間の視覚に非常にマッチした操作感だ。
だから世界中の車は同じ構造になっている。
そんなの当たり前だと思ってはいけない。
世界最初の有人動力飛行を達成したライト兄弟の飛行機は、ハンドルを右に倒すと左に曲がり、左に倒すと右に曲がるようになっていた。
視界が傾く方に操作するというライト兄弟なりの「直観的」という考え方だったのかも知れない。
飛行機の操作性はしばらく混乱したが、結局すぐに現在のスタイルに統一された。
こういう「人間の感覚に素直にマッチする」というのが「直観的」の本当の意味だ。
Macは「削ぎ落とし」によって「直観的」な操作性を達成しているというのはその通りだろう。
車が右に曲がる時に、
「ハンドルを右に回す方法と、レバーを右に倒す方法と、キーを回しながらターンキーを押す方法が用意されています」
なんていわれるよりも素直に
「右に回せば右に曲がる」
と言われたほうが理解しやすいに違いない。
そういうことじゃないかと思う。
しかし私がこの「ねこめしにっき」さんの記事に共感を感じたのはこの部分ではない。
『Windows は、マク的な「見た目」だけを取り込んでは来ていても、「手順列記型」の基本を見失わず追加強化しつづけた。で、 XP ちうひとまずの完成形に到達した。
ところが、マクはどうかとゆーと、 MacOS8 (かそれよりも前)から、「手順列記型」を盛りこみはじめてきた。 OS9 までに十分混乱ぎみになってたので、 OSX で一旦スッパリ「削ぎ落とし」て、 OSX 時代の新しい「概念類推型」の原始体系を Public Beta で見せようとした。
ところが、従来の「概念類推」が出来ない事に困惑したり、知らず知らずに「手順列記型」要素に慣らされてたマカたちが、口々に「不便」を「フィードバック」しまくった。(前者の例が従来のいわゆる「デスクトップメタファ」、後者の例がコントロールバー)』
これは我が意を得たりという感じがする。
OS9のGUIというのは本当に混乱していたと思う。
そして「MacはGUIの先駆者なのだ」なんていうマカの変なプライドとは裏腹に、実際のMacはWindowsの後追いをしていたという気がする。
この後追いがOS9のインターフェイスの混乱の原因だととするのは非常に明快な解釈だ。
多分そういうことだろう。
しかし大部分のマカはもうOS9的な
「ハンドルを右に回す方法と、レバーを右に倒す方法と、キーを回しながらターンキーを押す方法が用意されています」
というインターフェイスに慣らされてしまった。
だからOSXがそういうものをばっさり削ぎ落とした時に、マカからは一斉にブーイングが起こった。
これがOS10.0辺りの時代のことだろう。
『んで仕方なしに OS9 までにあった両要素を、時間がないからとりあえず形だけいくつか OSX 上に復活させる事で、従来マカの不満を下げよう、…てな事に今もかかりっきりの状態。ぼくだって Win のよーな「至れり尽くせり」は好きだし、シェアをもちっと伸ばそうというなら、これの強化が今後は必要とおもう。ただし、「概念類推型」を主として調和させなきゃだめ。でなければマクの存在意義なんて無いから。』
これが私が一番気に入ったフレーズだ。
結局OS9に慣れたマカにこびる形でとりあえずOS10.1、OS10.2はこういう要素を取り込んでいった。要するに妥協したわけだ。
Mac的であるという根源を取り戻そうとしたが、それはマカには受け入れられなかった。
だから若干OS9に逆戻りしたというのはそうかも知れない。
この記事が書かれたころはOS10.2はまだ出ていなかったからもっと前のOSXかも知れないが、この混乱は今でも続いていると思う。
それで「ねこめしにっき」さんはこの5年前の記事では
「混乱とやる気なさのアポーでは『至れり尽くせり』度の追求で迷いがないWindowsには惨敗必須」
と締めておられる。
これも言えてるかな。
OSXは実は筋がいいAPIをたくさん抱えていながら、Appleはまだその魅力を最大限引き出していないように思う。インターフェイスの視覚的なギミックに凝ってみるのも良いけれども、そこをもっと追求しないと、Windowsとは違うインターフェイスとしての存在価値がなくなる。
最新のOSは少しその方向性を見せてはいるが、まだはっきりと際立ったものになっているとも言えない。
コンサバなマカの言うことなんか無視して、要らないものはバッサリ切ってしまえば良いと思う。
そんなオールドMacファンの要望なんてどうせノイズなのだ。
彼らが金科玉条のようにいっている
「OS9やOS8のような操作性」
なんて本質的でもなんでもないかもしれない。
それよりもお題目のようにMacにつきまとっている
「直観的な操作性」
という言葉の意味をもう一度再認識させてくれるような、そんな唸らせてくれるようなインターフェイスの出現に期待してしまうのだ。
素質はあるんだからがんばってもらいたい。
いずれにしても、少なくとも5年前のこの記事の当時よりもMacを取り巻く環境ははるかに良くなってきていると思うのだが、その人気が出ている原因が
「追加ソフトも無しにWindowsXPをインストールできる」
なんていうことだけだったら、あまり意味がない気がするのだ。
2006年6月14日
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