「科学で解明されている」は本当なのかなぁ?
MORI LOG ACADEMYというブログの「子供の疑問」というエントリを見つけた。
要訳すると
『 大人の皆さんは、どれくらい答えられるだろう?
1)光とは何ですか?
2)熱とは何ですか?
3)力とは何ですか?
4)物体とは何ですか?
5)重さとは何ですか?・・・・
「まだ科学では解明されていないものがある」と表現されるが、上記のものは、すべて科学によって正体が解明されている。「自然の神秘」「生命の神秘」という言葉を使うのならば、そのまえに義務教育の範囲だけでも科学的知識を身につけるべきである。』
ということだそうだ。
これは要するにエセ科学とか占いのばばあに歴史や科学まで語らせてしまう最近の『知の後退』ぶりを批判した一文なのだろう。
その趣旨には異論はない。
しかし
「上記のものは、すべて科学によって正体が解明されている。」
なんて簡単に言い切ってしまうあたりが
「アンタだってその手の神秘主義者とあまり変わらないではないか」
と思ってしまうわけだ。
光とは何なのか、もう科学で完全に解明されているんだろうか?
科学とはいつの間にそんなに進歩してしまったのだろうか?
私の認識では「光とは何かは一応の定説はあるが完全に確証を得られたわけでは無い」ということだったように思うのだが。
かつて光は「波であるか粒子であるか」という論争が盛んになされていた。
有名なニュートンとホイヘンスの論争だ。
光は明確に波の性格を持っている。
19世紀の人が注目したのは波の干渉だ。
2カ所にスリットを開けた紙を通すとそのスリットを抜けた光が交わるところで縞模様ができる。
この実験は自宅でもボール紙と懐中電灯があればすぐにできるので、子供たちと一緒にやってみると良い。
これは光の干渉という現象で、当時から波はそういう性質を持っていることは広く知られていたから、これを根拠に
「光は波である」
という定説が優勢になった。
ところが光は波であるとすると困った現象が起きる。
ひとつは光電効果で、光が当たると電流を発生する光電管は光が強ければ強い電流を出し、弱ければ弱い電流を出す。
もし光が波であるなら、波が強かろうと弱かろうと同じ波長の波なら同じ回数光電管をヒットするはずだから電圧に差が出るかもしれないが電流量は一定でなければならない。
電流量は発生した電子の数に比例するわけだからだ。
この光の強さで変化するという事実は、
「光は小さな粒子が飛んでくるのだ」
としないと説明ができない。
もうひとつ困ったことは光は真空でも伝わることだ。
波である身近な代表例は音で、音波は空気なり水なり鉄棒なり何でも良いのだがそういう媒介になるものがないと伝わらない。
だから完全に真空なガラス管の中で発振されている音は外に伝わらない。
ところが光は完全な真空の中でも伝わる。
そこで19世紀の人達は「エーテル」という未知の物質を考え出した。
エーテルは質量もなく、体積もなく、この世界の全ての場所に充満しあらゆる物質の構造をすり抜ける非常に細かい粒子だ。
この世界に充満する「エーテル」が光を伝えたために真空に見えたガラス管の中も光は伝わるとした。
エーテルは質量がゼロなので世界に充満していても私たちはそれを認識することができない。
真空に見えたガラス管の中にも「エーテル」は満たされている。
しかしこの仮説は破綻した。
有名な四角いテーブルに仕掛けられた縦と横に別れてそれぞれ何往復もしてからもとに戻ってくる光を観測する装置で、地球の自転、公転方向に縦でも横でも光の速度に差がないことが証明されてしまった。
光は波なのか、粒なのかというプリミティブな疑問に答えが出る前にアルバート・アインシュタインが驚くべき論文を発表した。
それが有名な「光速不変」の原理と「同時刻の相対性」を盛り込んだ相対性理論で、これによって光の正体が解き明かされないうちに、光についての説明すべき性質が追加されてしまった。
光はなぜ全ての観測者から同じ速度で見えるのか。
1929年のアインシュタインへのノーベル物理学賞は「相対性理論の発見」へのものではなく「光の粒の発見」に贈られたものだ。
アインシュタインは生涯にわたって光の正体は何なのかを追求して「光は波であり粒である」という全く異なるふたつの姿を発見してしまった。
粒子でありながら波でもあるというふたつの形態をひとつの物体が持つことができるのか。
この矛盾した異様な姿はニュートン以来の整然とした物理学の世界の中では由々しき問題だった。
その時に光の正体を説明したのが「量子力学」が生み出した「不確定性理論」ということになる。
光は波でありしかも光量子という粒子でもある。
量子とはそれ自体は単体の粒子のような姿をしていながら、その単体を観測されていない時には姿を持たないガスのような性質を持ち、その不定形の姿故に波のような性質も持ちうるというものだ。
この説明は光についてかわされてきた永遠の議論に終止符を打ちそうに見えたが、何よりも問題提議をしたアインシュタイン自身がこの「不確定性理論」に強く反対した。
それも尋常な反対ではない。
アインシュタインは一般的には「相対性理論を考え出した人」ということになっているが、アインシュタインが相対性理論にかかっていたのは若い間のごく短い期間だけで、実はほとんど生涯をこの「不確定性理論」を生み出したボーアらの「量子力学論者」に反論することに費やしたといっても良いくらい、「量子力学」を疑問視する膨大な議論を残している。
量子力学は今日では光の正体を説明した一応の定説ということになっている。
量子力学を証明するような物理現象も観測されている。
しかしアインシュタインは主に思考実験という方法で量子力学に挑んだのだが、そのうちのいくつかはいまだに量子力学支持者によって完全に論破されていない。
量子力学は光を粒のようなもであり、粒のようなものではないと説明する。
人間が観測している時だけ「粒」の姿をとり、観測していない時は雲のような姿になって波の性質を発揮する。
これにより光は粒であり波であるという矛盾したふたつの姿をとりえると説明する。
まるで禅問答だ。
観測者が観測している間だけそれは粒のような姿をして、粒子としての性質を発揮する。しかし観測していない間は量子は一定の姿を持たず、波のような形態に変化している。
この説明に常識はついていけてるだろうか。
アインシュタインは有名な「シュレディンガーの猫のパラドックス」(*注)によって反論した。
このパラドックスにはいまだに誰も反論することに成功していないはずだ。
アインシュタインはきわめて常識的な反論をしている。
「誰かが観測していようと、していなかろうとそんなことには無関係に月はあそこにあって地球の周りを回っているのだ」
この「アインシュタインの反論」を完全に論破し光や重力の正体を完全にひとつの理論で説明できる「統一場理論」というものが永らく科学の世界では待望されているのだが、いまだにそういうものは実現していない。
要するに
「光って一体何なの?」
という議論はいまだに決着がついていないのだ。
これが数年前までの私の認識だったのだが、この数年間に科学はもうこの問題を解決してしまったのだろうか。しかし量子力学にまつわる議論に完全に決着がついたというのなら大ニュースだから、いくら私がぼーっとしていてもその手の大ニュースなら気がつくはずなのだけど。
確かに最近のテレビを見ていると占いのばばあに日本の歴史を語らせたり、小太りの霊感師に自然の神秘を説かせたりいくら何でもこれはひどいと思うような内容のものが多いのは事実だから、
『「自然の神秘」「生命の神秘」というまえに義務教育の範囲だけでも科学的知識を身につけるべき』
と言いたくなるお気持ちはとてもよく分かるのだが、自然の神秘としか言いようがないことはやはりあるんで、だからといって私は占いのばばあは絶対に肯定しないけど、「全ては科学で解明されているのだ」なんて20世紀的なフレーズも簡単に使いたくはない。
「神はさいころを振らない」
「永遠の神秘は人間が自然を理解できることだ」
アルバート・アインシュタイン
よく似た話をもうひとつ見つけた。
『「円周率は3」の話はウソだった』という「頭ん中」さんのエントリだ。
円周率はわれわれの世代は「およそ3.14で実際には3.14159・・・というように続く」というように習った。
ところが「ゆとり教育」の新学習指導要綱によって「円周率は3」と教えるように変わったということが各所でかなり大々的に報じられ、概ねの世間の評判は
「教育の中身を骨抜きにしてしまい、学力の低い生徒を大量に排出するだけ」
というようなことで散々叩かれていた。
しかし問題は誰も学習指導要綱に本当にそんなことが書かれているのかちゃんと調べていなかったということだ。
私も調べていなかった。
ところが「頭ん中」さんによると文部科学省のサイトでは
『新しい学習指導要領についてのQ&A
(Q1)
「円周率は【3.14】ではなく【3】としか教えなくなるのですか。」
(A1)
そんなことはありません。円周率については、【3.14】と教えるだけではなく、それが本当は、3.1415…とどこまでも続く数で、【3.14】も概数にすぎないということをこれまで通り、きちんと教えます。
なお、円周率については、これまでも「目的に応じて3を用いる」こととしていますが、これは、およその長さが知りたい場合には、3を用いて計算するなど、様々な状況に応じて自分の判断により、使い分けられるようになってもらいたいからです。』
という説明が掲げられていて、この内容だったらわれわれが習ったのと全く変わらない。
円周率をおよそ3とするというのは検算などの計算の時により大まかな概算を使うことに関して「目的に応じて処理できるよう配慮する」というきわめて現実的な内容だった。
そういうことも知らないで
「文部省は子供たちに円周率は3だと教えようとしている。なんたる知の後退か!」
と議論してしまった人が圧倒的に多かったのではないだろうか。
これも結局
「光の正体は科学で完全に解明されている」
と言い切っちゃう人や、
「コンピュータはかけ算も足し算の繰り返しでやっているので、コンピュータ技術者も基礎を叩き込め」
と言い切ってしまう立花隆と同じで、結局そういうことをいう人は、本当の議論の中身である量子力学やコンピュータの命令セットの構造や円周率を扱う数学そのものには全然関心がなくて、そういうものを扱う精神論にしか関心がないんじゃないかと思う。
でも精神論で単純に割り切れてしまうほど、数学の世界も理論物理学の世界も、コンピュータの世界も単純ではないということだ。
こういう似たような話題に連続して最近出逢ったので、ますます心していきたいと思った次第。
合掌
「人が認識していようといなかろうと、真理はそこにあるのです。真理が人に依存していてはならないのです。」
アルバート・アインシュタイン
*注「シュレディンガーの猫のパラドックス」
本文が分かりにくかったのでちょっと注釈。
ニールス・ボーアの不確定性理論は光や電子が粒子であり波動であるというふたつの性質を同時に持ちうるのは、これらの量子は「観測することによって粒子になり、観測されない間は雲のような姿で波動を形成しその未来は確率によってしか予測できない」という論旨で説明した。
これに対しアルバート・アインシュタインはひとつの物質が同時にふたつの形態を持ちうるのは、物理学の根本法則の瓦解に繋がると反論したが、ボーアは「量子レベルのミクロな物理と我々が日常目にするマクロな物理学は全く違う法則によって律されている」という物理学のダブルスタンダードを主張した。
アインシュタインの反論はこのダブルスタンダードを攻撃することを主なテーマにしていた。
そこで「量子の世界とマクロな世界とではスケールが違いすぎて双方に因果関係は成立しない」というボーアの論拠を攻撃するために、この「猫のパラドックス」という思考実験を提示した。
この思考実験では簡単な実験装置を作る。
猫と猛毒ガスが入った小ビンをハコに仕込む、このビンは機械的なハンマーで叩き割られるようにセットし、このハンマーのスイッチはガイガーカウンターの反応で入る。そしてガイガーカウンターの横には放射性物質が入った容器をセットする。
そしてこのハコを完全に閉じてしまい人間が観測できないようにする。
するとハコの中の猫はどうなるだろうか?
「不確定性理論」の説明によると、放射線粒子も観測していない時には粒子ではなく雲のような状態で、ガイガーカウンターに放射線粒子が飛び込んだ状態と、飛び込んでいない状態は雲のように渾然一体となっている。その粒子がカウンターに反応するかどうかは確率でしか予想できず、人間が観測するまでは確定していない。
とするとハンマーのスイッチが入っているかどうかも人間が観測するまでは確定していない。つまり箱の中に毒ガスが充満しているかどうかも観測するまでは確定しておらず、猫が生きているか死んでいるかも確定していない。
猫が生きているか死んでいるかは、箱を開けた瞬間に確定しそれまでは箱の中には生きている猫と死んでいる猫が、雲のように渾然一体と存在していることになる。
このようなことがあり得るだろうか?
光の正体は科学で解明されているというが、その光の正体を説明している理論はこのような危うい仮定の上に成り立っているのだ。確かに今日ではそれは定説になりつつあるが、でもこの定説を完全に確定的な事実だと言い切るには、この雲のような状態で生きているし死んでいる猫が物理学的にあり得るということを証明しなくてはならないのだ。
2007年4月6日
<追記>
この量子力学についての一文に、BBSで何人かの方から疑義や意見をいただいた。
私としては量子力学の正否はいまだに釈然としない問題であって、「水が凍れば氷になるのだ」なんていう反論のしようがないような問題と違ってまだまだ未解明な部分ではないかと思っていた。ところがいろいろ寄せられた意見を見ていると、皆さんは量子力学はもう既定の真実であり、氷と同じく反論の余地はほぼないと考えておられるようだというのが、私には誇張ではなく新鮮な驚きだった。
だから引用したリンク先のサイトも
「そのまえに義務教育の範囲だけでも科学的知識を身につけるべきである。」
なんていう文脈が出てくるのだと、ほのかに想像がついた。繰り返すがこれは私にとっては本当に驚きだったのだ。
量子力学の正否以前に、物事の認識というのはこんなに違うのだなということを話してみて初めて思い知ったような感じだ。
そのやり取りの一部をここに採録する。
長文のやり取りなので、読むのが面倒な人は飛ばしてもらいたい。
ただBBSはやがて消えてしまうので、これは残しておく価値があるかもしれないと思いこちらにて転載する。
量子力学についての質問 投稿者:ifish 投稿日:2007/04/07(Sat) 07:35 No.2416
はじめまして。いつもソフトの紹介など、参考にさせて頂いています。
さて、四月六日のアインシュタインの話について質問があるのですが、——とはいうものの、私は完全な文系人間でして、自分の知識に欠落が多いだけなのかもしれませんが——
・mutaさんの文章だと、「シュレーディンガーの猫のパラドックス」を唱えたのはアインシュタインであるように読めてしまうのですが、最初にそれを唱えたのはシュレーディンガーですよね。アインシュタインが「シュレーディンガーの猫〜」について言及している話があったりするのでしょうか。
・アインシュタインが量子力学への反論として持ち出した思考実験で一番有名なのは「EPRパラドックス」で、それが「神はさいころを振らない」(=確率によらない、隠れた変数が存在する)という言葉と繋がっていると私は理解しているのですが、mutaさんは「ベルの定理(不等式)」によって「EPRパラドックス」が論破されたとする考え方には反対ですか?
あるいは、幾つかの量子力学の入門書などには"「ベルの定理」によって、隠れた変数が存在するという仮定は誤りとなる(仮定すれば、より矛盾を生じる)"・"よって、量子世界の記述は決定論的ではなく、確率論的でしかありえない"という説明がありますが、これには反対ですか?
ちなみに、私は「ベルの定理」は非常に強力であると考えており、少なくとも、「隠れた変数」を想定していたアインシュタインの考え方(=量子的世界にも決定論が成立する)は間違いだったのではないかと思っています。
ただし、「シュレーディンガーの猫」は未だ解き難い難問として屹立しているので、コペンハーゲン解釈(あるいは、ボーアの考え方)にも問題があるとも思います。
……まあ、「よく分かりません」ということを遠回しに言っているだけですが(笑)。
(あと、一番矛盾の少ないエヴェレット解釈というのもありますが、あれはもう証明しようがないですし……)
というわけで、「『光って一体何なの?』という議論はいまだに決着がついていないのだ」というmutaさんの言葉には基本的には賛成ですが、ディテールにおいて幾つかの疑問が感じられたので、そのうち主なものについて質問させて頂きました。私の認識の不備などを御指摘頂ければ幸いです。
なお、瑣末なことに拘っているつもりはないのですが、もしも上記の文章がそう読めてしまうとしたらごめんなさい。
長文失礼しました。それでは。
Re: 量子力学についての質問 muta - 2007/04/07(Sat) 12:37 No.2418
私は物理学には精通していませんので、詳細の解説はできません。
詳細をもっと知りたい場合は、専門の方にお聞きください。
ただ私が理解している範囲のことを書きます。
アインシュタインの思考実験で一番有名なのはEPRパラドックスなのかどうかは知りませんが、私は「箱の中の時計」の思考実験のついてのボーアとの論争が一番有名だと思っていました。
私には観測が結果に影響をもたらすという量子力学の中心的理論が常に危機をはらんでおり、このことがアインシュタインらの反論をいつまでも論破できない主な理由だと思うのです。
シュレディンガーはもともと量子力学論者であり、例の猫のモデルはノイマン(ノイマン型コンピュータの)らとの論争の中でミクロ系とマクロ系という考え方が量子理論の成立に必要かどうかというテーマに問題を提起するために考え出されたもですです。
だから量子力学を補強するために考え出されたモデルだったはずなのですが、その矛盾はおっしゃるようにあまりにも強力であり、アインシュタインは言わば「敵の武器を使って戦え」というボーグウェンザップ将軍のような戦略で議論を展開したと理解しています。
猫のパラドックスと観測が結果に影響するといういわば逆因果律が量子力学に常につきまとう問題であり、この矛盾をカバーするためにニュートン以来の物理学の基本法則すら否定しにかかっているのが現在の量子力学の自家撞着だと考えています。
それに対してEPRパラドックスはさらにこの猫のパラドックスを押し進めて、結果が原因を規定するという量子力学の奇妙さを鮮明にする試みだったと思います。
それが論破されたか、されていないかは私は知りません。
私には詳細は分かりかねますが、私はアインシュタインの手記の記述に多くの共感を感じます。
「どこがとは言えないが、この理論は間違っている。少なくとも何かが足りないと私の心の声が叫んでいるのです。」
私も論理的にはいえませんが、直感的に量子力学が積み上げてきた「不確定性理論」などの体系は根幹に重大な欠陥があると考えています。
だからいつのことかは分かりませんが、そんなに遠くない未来に量子理論を捨て去らざるをえないような重大な転換があるような気がします。
ちょうどかつて、定説となりかけていた「エーテル」理論を物理学が捨て去らざるをえなかったようにです。
Re: 量子力学についての質問 haru - 2007/04/07(Sat) 13:54 No.2419
横レスすみませんが、ちょっと一言。
量子力学をエーテルと並べるのはあまり適切ではないかなと思います。
エーテルは天動説と同じようなものです。当時の人たちから言えば、どちらの説も非常にもっともらしく見えました。そして新しい説(エーテルは存在しない、地球は動いている)は、直感的におかしいし、受け入れにくいものでした。
地動説も、世界の中心は地球であるはずで、太陽が中心なのであれば、なぜ物が太陽に落ちて行かないのか、というような考えでした。エーテルも「光も音みたいに媒体があるはず!」という思い込みにしかその根拠はありませんでした。
しかし両者とも、実際の観測結果から間違いであったことが証明されました。アインシュタインの相対性理論も、「光速度は観測者にとって常に等しい」という思考実験をベースとして、「時間は観測者によって伸び縮みする」という直感的には受け入れがたい結論を導き出しました。これは当然直感的には受け入れにくいので世界中から反発を受けましたが、現実の観測結果から正しいことが証明されました。
確かに量子力学も、特に不確定性原理などは直感的には受け入れにくいです。しかし科学の歴史は、直感的には受け入れられない思い込みの打破が繰り返されてきた歴史であるとも言えます。アインシュタインも、その古典的な常識を打ち破る大きな理論を打ち立てましたが、その常識にとらわれてしまったのは既に述べられている通りです。
また、量子力学の理論としての正しさは、エーテルや地動説とは異なり、実験結果をベースとして広く受け入れられています(もちろん異論を唱える人がいないわけではありませんが)。そして、量子力学の理論に基づいた製品は世の中にあふれ返っています。例えば、たった今触っているであろうコンピューターに使われている半導体は、量子力学が正しくなければ実現していないものです。調べてみれば、量子力学がいかに多くの身近な製品を支えていることがわかると思います。
また、古典力学(ニュートン力学)は量子力学とは矛盾しないことも付け加えておきます。量子力学は、あくまでミクロの世界でのみその特徴が表れてくるものであり、マクロの物理学では量子力学の効果は微小となりニュートン力学と一致します。
というわけで、現代科学においては、量子力学はそれほど眉唾なものではない、というのが一般的な見解となっているというのが私の認識です。
Re: 量子力学についての質問 muta - 2007/04/07(Sat) 15:02 No.2420
なんだか、科学史の教室の議論みたいになってきましたね。
ただharuさんの指摘は私には受け入れがたいと思います。
「量子力学をエーテルと並べるのはあまり適切ではないかなと思います。」
私は量子力学はエーテルと同じだと言っているのではありません。しかし量子力学は全てを矛盾無く説明することに成功していません。そういう意味ではエーテルと同じです。
そしてそのためには全く新しいモデルが必要かもしれないと考えます。
私が直感という言葉を使ったので、「常識に合わないからといって間違いであると決めつけるべきではない」という横道にそれた議論に入ってしまっていますが、私は太陽に物が落ちないのはおかしいとかそういうレベルのことをいっているのではありません。
量子力学は実は何も説明することに成功していないといっているのです。
例えば宇宙の始まりには巨大な宇宙のタマゴが有ったという仮説が有ったとします。
この仮説は正しいか正しくないか、という以前にこの仮説自体が何も説明していません。
もし宇宙の始まりを説明しようとしたら、「最初は何もなかった」というところからはじめないといけません。でないと「始まり」を説明したことにならないからです。
ところが「何もないところから何かが生まれた」という証明はどういう方法であれ物理の基本法則に矛盾しています。
「宇宙の始まりは何か」
というモデルの設定そのものに矛盾が有るのかもしれません。
これと同じことで、量子力学はその体系は矛盾無くどんどん成長していることはharuさんの指摘の通りで、そのすべてがデタラメだとは思いません。
しかしそれは樹上の小枝や梢が矛盾無く成立しているというだけの話で、根幹の矛盾は何ら解決されていないということです。
その意味では光に関する長年の議論の論点を矛盾無く説明したエーテル理論と似ています。
光は粒子であり波であると考えるとほとんどの物理現象が矛盾無く説明できます。ひとつだけ残念だったのはエーテルの存在を証明できなかった上に、光の速度が不変であることも説明できないという点だけが問題でした。
しかしこの破綻からこの理論体型は根幹から崩れてしまいました。
天動説は宗教的な理由で発展した物ですが、エーテル理論は宗教の要求ではなく純粋に物理学者の要求により生まれた学説です。ここが大きく違いますので、天動説とエーテル理論を同列に並べて論じる方が不適切です。
アインシュタインは古典物理学の呪縛に捕われていたと言いますが、「観測者の存在を必要とする真理は真理と言えるのか」という問題提議はただの妄想でしょうか?
またマクロ系とミクロ系は矛盾しないと簡単に言い切ってしまうのもどうでしょう。
それは一部のモデルで矛盾無く存在できるというだけの話で、あらゆる場面で矛盾がないという意味では有りません。
「シュレディンガーの猫のパラドックス」がまさにそういう問題を提起しているのじゃないでしょうか。
直感という言葉を使ったので、話が変な方向に行ってしまっていますが、でも論理的に言う事もできないので再び直感ですが、量子力学の現行のモデルとは違う何か新しいモデルが必要なような気がします。
そのモデルは案外アインシュタイン自身が若い頃に「矛盾が多すぎて可能性がない」として捨ててしまったいくつかのモデルの中にあるのかもしれません。
いずれにしても、古典的な常識は新しい真理には通用しないから、常識に合わない物を受け入れよ、というのは常識に合わなくても真理は真理だという極論にいきがちです。
でも、同時刻の相対性という常識に合わない事実はすんなり受け入れられた頭でも、この体系はどうしても受け入れられないのです。
Re: 量子力学についての質問 ifish - 2007/04/08(Sun) 06:51 No.2423
御返事、御説明ありがとうございます。
haruさんの御意見にも感謝です。
まず、何故mutaさんが言及していない「ベルの定理」を私がわざわざ持ち出して質問したのかというと、「シュレーディンガーの猫」が難問であるのと同様、「ベルの定理」もまた相当に覆すことが困難であるように思えるからです。「シュレーディンガー〜」が量子力学にとっての難題であるように、「ベルの定理」は逆にニュートン力学への難題をつきつけているように感じます。よって、そのあたりのことをmutaさんはどのようにお考えなのかお聞きしたかったのですが、御存知ないのでしたら残念です。(あるいは、知る必要がないと判断してらっしゃるのかもしれませんが。)
更に、mutaさんの「直感」は様々な思索を通じての直感であるでしょうから、それに異を唱えるつもりはありませんし、そのような知恵も当方にはありません。
ただ、私に関していえば、「もしも、この常識的には受け入れ難い量子力学が正しいとしたら、それを収めるべき適切なモデルは何だろう」とは思います。
haruさんが仰られる通り、〈計算手法〉としての量子力学は多大な成功を収めてきました。しかし、それらの式が世界を説明するためのモデルとして上手く提示できないというのは何故だろう? あるいは、科学にとって〈モデル化〉しえない領域というものがあるのだろうか? (危険なアナロジーですが)数学にとって、証明不能な命題があるように?
——これらはどちらかといえば、「是非」の話というよりは「姿勢」についての話です。
mutaさんがお書きになられた四月六日の文章は、ある種の「謙虚さ」についての教えだと思うのですが、私なりの自然現象や現代科学への「謙虚さ」について考えた場合、こんな風になるということです。
(正直、ゲーデルの不完全性定理とハイゼンベルクの不確定性原理がなかったことにできたら、楽だよな〜と思って苦笑いすることがしばしばあります)
ともあれ、本題がMacのソフトウェア/トラブルシュートであるはずの場所で、このような話につきあって頂けたことを感謝しています。
冒頭の繰り返しになってしまいますが、どうもありがとうございました。
Re: 量子力学についての質問 muta - 2007/04/08(Sun) 10:30 No.2424
>そのあたりのことをmutaさんはどのようにお考えなのかお聞きしたかったのですが、
お答えします。よくわからないことには言及しないということです。
ベルの定理は本当に量子力学を証明することに貢献しているのでしょうか?
私にはそこらがよくわかりません。というよりそこにも強い疑問を感じます。
しかし疑問を感じますが、私は本職の物理学者ではないのでそこいらの議論には深入りできないというだけです。
アインシュタインもボーアも二人とも古典物理学の呪縛に捕われて間違っていたという解釈もあるのかもしれません。しかしこの二人とも誤謬が有ったようにコペンハーゲン解釈もエヴェレット解釈も全体を破綻なく説明することはできないじゃないかとも思うわけです。
今回の議論でひとつ収穫だったというか面白いと思ったのは、
「量子力学は完璧に近い、あるいは近づいている」
と考えている人が多いのかもしれないというアイデアを得られたことです。
このことは実は私には新鮮な驚きです。
確かに量子力学は単なる空理空論ではなく、我々は量子コンピュータとか量子暗号化とかテクノロジーの世界で量子力学の果実を実際に利用し始めています。
だから量子力学の誤謬を言うと「それじゃ量子コンピュータも量子暗号化ソリューションも全部眉唾なのか?」という反論に当たってしまいます。
しかし量子暗号化ソリューションが成立するからといってそれは量子力学の世界は誤謬が無いという証明にも何にもならない、ということを言っているのです。
演繹と帰納は全く議論の方向が違います。そこを混同しないことです。
私の直感の根拠はこういうことです。
枝葉の体系で自然現象を説明することに成功したエーテル理論が、結局は質量が無い超微粒子の存在を仮定した段階で間違っていたように、膨大な体系を成長させることに成功した量子力学ですが、そのスタートの段階で観測者が因果律に関与するという考え方を前提にした段階で、何か重大な見落としをしているような気がするのです。
いくら数学的な定理を駆使してその可能性を示唆しても、逆因果律の成立を許してしまうとどうしても「シュレディンガーの猫」のようなほころびを許してしまうことになります。
ほころびが有っても使えるからいいじゃないかということかもしれませんが、それ故にこれはもう既定の事実なのだというのはやはり乱暴だという気がします。
4/6の文意は「科学で解明されている」というほど科学は何でも分かっているわけではないのに、そういう単純な決めつけをするのは「木星のパワーで運気が上昇するわよ」とかいっているのとあまり差がないんじゃないのかということを言っているわけです。
確かにサイトの流れとは無関係なことで長文スレになってしまいましたが、イイダシッペは私ですから質問には御答えしないといけないと思います。でも正直
「この問題をどう考えるのか」
と聞かれると「私にはよくわかりません」としか答えようがありません。
よくわかりませんが感想を言うと、「量子力学は何かが違う」という違和感をぬぐい去ることができないということです。「もうほとんど決着がついている」という見方にも「そうかな?」としか言いようがありません。
要約するならそういうことです。
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