Previous Topへ Next

「こんな言葉の意味なんか間違えるわけないじゃん」
という言葉の理解が怪しいという話
/Are you convinced you're right?

言葉の誤用は時に決定的な噛み合ない議論の原因になる


  

 遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん
 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ

 

これは「梁塵秘抄 巻第二 四句神歌 雑」に収められた歌だそうだ。

「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)は平安時代末期に編まれた歌謡集。今様歌謡集。
編者は後白河法皇。治承年間(1180年前後)の作」ということだ。
今様というのは古歌のように几帳面に57577の定型を守らずに自由な形式で歌われた、当時の流行歌ということらしい。

永らくこの歌が気になっていて、きちんと出所を調べようといつも思いながらMacの前に座るといつも他のことで忙しくて、永らくほったらかしになっていたのだがやっと調べることができた。

ところで問題はこれの意味なのだ。
私がこれを初めて聞いたのは18の時で、これを授業で教えてくれた予備校の破天荒教師は
「これは遊女が子供の遊ぶ声を聞いて、おのが身の上を思って動揺する様を歌った歌だ」
という説明をしていた。
だからずっとそういう歌なのだと思っていた。

しかしこれは一般には「子供の可愛らしい声を聞いて感動で我が身も揺らいでしまう」という意味だということになっているらしい。
「遊女が自らの身を悔いる歌という異聞の解釈もある」
ということになっているらしいが、私はそのマイノリティな解釈がこの歌の意味だと思っていた。
どう考えてもこの文脈はそう解釈した方がドラマチックというか深みがあると思うのだが、確かにこの文字面だけからはそういう解釈は飛躍し過ぎということになるのかもしれない。

このように最初にどういうふうに言葉と出会ったかで、本来と違う意味を覚え込んでしまうという例は実際にはたくさんある。
例えば「檄を飛ばす」という言葉。

「受験シーズンに入り、予備校の講師たちが最後の追い込みをかけるように受験生に檄を飛ばしていた」

というような使い方をする。
実際そういう文章に出会うし、テレビのナレーションなどでもそういう使い方をしている。
しかしこれは間違いだ。

この場合「檄を飛ばす」というのは「喝を入れる」というくらいの意味で使っている。
しかし「檄を飛ばす」という言葉には「喝を入れる」という意味はない。
この言葉の本当の意味は「ある行動を起こそうとする者が同志を募る趣意文を送る」という意味なのだ。
だから「檄文」というのは「叱咤激励をする文章」という意味ではなく「同志を糾合する呼びかけの文書」という意味なのだ。

これはかなり多くの人が間違えて憶えていると思う。
だから「受験生に檄を飛ばす」というのは完全に間違った使い方だ。
講師の先生も一緒に受験して「同じ大学に同時に入学しよう」と呼び掛けているなら間違いではないのだが。

こういう意味を間違えやすい言葉間違えやすい日本語などのサイトをいくつか見つけた。
これをよく見てみて欲しい。
皆さんは「意思表示」と「意志薄弱」の「思」と「志」をちゃんと使い分けているだろうか?
「やおら」と「押っ取り刀で」をそれぞれ逆の意味で使っていないだろうか?

「刺客」「礼賛」「相殺」を「しきゃく」「れいさん」「そうさつ」と読んでいるアナウンサーもかなり多いのも気になるし。


モラルハザード Moral Hazard—言葉は正しく使いましょう−というページを見て、確かにこれもかなり誤用されているなと思った。
というか私もそういう意味だと思っていた。

要約すると、「モラル」という言葉も「ハザード」という言葉も日本人には馴染みのある言葉だ。
だから「モラルハザード」という言葉は「倫理観の欠如により不正が常態化している様」を表している言葉のように見える。
実際そのような意味で使っているエコノミストの話も聞いたことがある。
しかし本当の意味は「保険関係の用語」で
「危険回避のための手段や仕組みを整備することにより、かえって人々の注意が散漫になり、危険や事故の発生確率が高ま」まるリスクということだ。

つまりシマンテックをインストールしていることで、「どうせ大丈夫だ」と思いこんでかえって油断してAntinnyなどのウイルスやトロイの木馬にだだ漏れに感染しているWindowsユーザのような状態を指して言う。
これはちょっと例えが悪い?
要は「悪意があって不正を犯すモーラル(道徳心)の欠如」を言うのではなく、「安心感のために危険回避のインセンティブ(モラール)が欠如して、そのために過失を犯してしまう」ようなケースをモラールハザードというのだそうだ。

これは気をつけないといけない。
しかしカタカナ英語は時に正しく使われていないということが多いことも感じる。
いつも思うことだが、カタカナ英語はどうしてもニュアンス上必要な場合以外はできるだけ使わないことだ。
この場合のように、本当の意味を知っている人が聞いたら誤用はかなり恥ずかしいということもある。
それに案外こういう言葉の捉え方がお互い違っているために、こちらの意図が正しく相手に伝わっていないということも多い。

そういう時に言葉尻をとらえて不毛な議論をするのは、時間と労力のムダだ。言葉が通じていない時には本論に入る前に双方の意図を明確にする質問を繰り返すべきだ。
これは先日の「質問に質問で返す理由」という記事でも書いた話とも通じる。
これからも言葉の正しい意味を勉強していかないといけない。
この年になってもこういう「モラルハザード」とか「檄を飛ばす」とか普通に使っている言葉の意味を間違えて覚えていたりするからだ。
でも完璧は死ぬまであり得ないだろうから結局質問を繰り返すしかない。

これから私に話しかける人が私と話しにくいなと感じることがあったら、こういう理由だと思って容赦願いたい。




2007年5月9日













Previous Topへ Next





site statistics