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監督 ウォルフガング・ペーターセン
キャスト クリント・イーストウッド、ジョン・マルコビッチ、レネ・ルッソ、ディラン・マクダーモット
カット割りで心理描写をすることを知っている玄人監督の渾身の作
以前アメリカ映画はほとんど外国人監督が撮っているということをここでも触れたことがある。
元々ハリウッドというところは、外国人監督だろうがこだわりなく才能を受け入れるところだったのかもしれないが、特に80年代の末からはアメリカ人のアイデアは枯渇してしまったのかと思うくらい、アメリカ人監督は鳴かず飛ばずになってしまい、かわりに外国人監督が次々にヒットを飛ばしているという状況が始まった。
この傾向は、今でも続いている。
そのハリウッドの主流派になってしまった外国人監督の中でもこの、ウォルフガング・ペーターセンは先駆けの部類だと思う。
元々西ドイツの独立系のプロダクションで制作した「Uボート」という映画が、ドイツ語オリジナルであるにもかかわらず本国だけでなく世界中でヒットした。この作品がペーターセンの名前を一躍世界的に有名にした。
この映画自体は潜水艦戦をもっともリアルに描いた名作「眼下の敵」を考証的にも、映画の質的にも上回ってしまうような快作だった。
同じ頃にドイツ国内のテレビドラマだがナターシャ・キンスキーのデビュー作「危険な年頃」の監督としてもセンセーショナルな話題になっていた。
ドイツ時代からこの人は才気煥発という感じの人だった。
このペーターセンの才能に目をつけたハリウッドが、アメリカに招いて作らせた第一作が「ネバーエンディングストーリィ」だった。
この作品はペーターセンと同じドイツ人の童話作家、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の映画化で、こういう素材を選ばせるところにハリウッドの気の遣い方が伺える。
若い巨匠はこの期待にも応え、「ネバーエンディングストーリィ」も大ヒットにしてしまった。
(ミヒャエル・エンデはきっと不満だったろうが)
あとの作品は「プラスティックナイトメア」「第5惑星」「アウトブレーク」「エアフォースワン」「トロイ」など、この監督は作る映画がどれもこれも評価が高いという希有な監督になった。
私も知っている範囲ではこの監督の作品で外れは今のところひとつも思い当たらない。
(ただし、「ポセイドン」だけはかなり厳しい評価を受けているようだ。私は観ていないので何ともいえないが、そのうち観てこの部分後日加筆するかもしれない)
その作品のラインナップの中で、私が一番好きなのがこの「シークレットサービス」という映画だ。
ストーリーボードを説明すると
「主人公は老いた財務省通貨監視官(シークレットサービス)だが、若い時にJ.F.ケネディの護衛任務に就きダラスの町中で白昼目前の大統領を暗殺されるという体験をし、心の傷を負っている。
今ではすっかり老いて定年退職までの日数を指折り数える日々だったが、ある時そんな彼に『ブース』を名乗る男から1本の電話がかかってきた。
『お前とゲームをしたい、俺は大統領を殺す。お前は命をかけて守れ』
この電話は単なる脅迫ではないことが明らかになってくる。そして偽造紙幣内偵から大統領警護の任務に戻されたイーストウッドと『ブース』を名乗るマルコビッチの間で、しのぎを削るような攻防戦が展開される」
というような始まりだ。
『ブース』はリンカーン大統領をデリンジャー拳銃で撃った暗殺犯の名前だ。
やがてこの男は『ウエットボーイ』という隠語で呼ばれるCIAの暗殺班の実行部隊員だったことがわかる。
国家から警護任務を与えられて失敗した男と、暗殺任務を与えられて逆に国家から証拠隠滅のために消されようとしている男が、現職大統領の命をかけて再度リターンマッチを繰り広げる・・・
というこのテーマだけですでに熱くなってしまうというか、ワクワクせざるを得ない展開だ。
ところがこのペーターセン監督という人の非凡なところは、こういう設定のウエットな部分に全く頼らないで、非常にクールにというかドライにストーリィを展開していく。
重要なのは感情ではない、心理を克服するスキルなのだというようなテーマが繰り返し展開される。
例えば、若い捜査官に捜査手順を教え込もうとするイーストウッドと助手の会話。
船中でとらえられた潜入捜査の助手を「撃ち殺せばお前は味方だと信じてやる」といって銃を渡されたイーストウッドは助手の頭めがけて、引き金を引く。
銃は空だったわけだが、この助手は納得していなかった。
「あの銃が空だとどうしてわかった? 重さか?」
「さぁ、一発くらいは入っていたかもな。重さじゃ一発の違いはわからない」
と意地悪く笑う。すると助手はすくみ上がってしまう。
しかし本当は「銃は空だ」と確信していたはずだ。
目的は「本当に裏切らないかテストする」ということだから一発入った銃を渡したりするはずがない。
これが心理を克服するスキルだが、若い捜査官は相方に銃を向けられたことで心理的に参ってしまう。
この老練でタフな捜査官をイーストウッドが演じているのだが、実はイーストウッドはほぼ監督業に転向してしまい、純粋に役者として映画に出演するのはこの作品が23年ぶりだったのだそうだ。
もう監督として一流になりつつあったイーストウッドが、「戦略大作戦」以来の「役者」としてこの映画に参加したというのは、それだけこの脚本とペーターセンの監督としての技量に惚れ込んだということなのかもしれない。
そのイーストウッドは老いた捜査官を演じたのも画期的だった。
イーストウッドのイメージは「荒野の用心棒」であり「ダーティハリー」であり、この映画にもその時代の若いイーストウッドがケネディの護衛についているCG合成が使われていてそれも話題になったが、イーストウッドがこの映画で演じたのはタフで強面なヒーローではない。
若い頃はタフで強面だったが、今ではすっかり老いたという男を喜々として演じている。
大統領暗殺の予告が本物であることがわかり、その『ブース』を名乗る暗殺犯はイーストウッドにしか心を開かないことから、イーストウッドは偽造紙幣捜査から大統領警護任務に戻される。
ところが遊説の車に伴走して息があがってしまう。
タフで強面だったヒーローもすっかり老いたのだ。しかしこれがこの物語の重要なキーのひとつになる。
老いても心情だけは若い頃のタフで強面のままだ。
それで警護班の若いエリート上司とも衝突してしまう。
息があがって這々の体になるイーストウッドのカットに、車上で冷笑するエリート上司の顔がカットバックされる。
そのあと控え室で休憩しているイーストウッドに突然救急隊員が飛びかかってくる。
「心臓マヒを起こしてる患者がいるという通報が有ったんだ」
といいわけする救急隊員にイーストウッドは
「誰だ、こんないたずらをする野郎は?」
息巻くがすでにイーストウッドと衝突しているレネ・ルッソは
「野郎かしら?」
と皮肉る。イーストウッドはいたずらの犯人は男だと決めてかかっているが「私だってやってやりたい心境よ」ということだろう。
こういう会話が有って、しかも車上で冷笑する上司のカットバックがあるので、観客はこのいたずらは彼が仕掛けたものだと感覚的に思い込んでしまう。
どこにもそんな説明もナレーションもないにもかかわらずだ。
ところがずっと後になって、このいたずらはこの生意気な若い上司でも、レネ・ルッソでもなくあの『ブース』が仕掛けたものだということが判ってくる。
ここがカット割りの視覚的な示唆に観客がはめられてしまっているというトリックなのだ。
当然あの「車上であざ笑う上司」の短いカットは彼がいたずらの犯人であることを示唆するカット割りのはずだ。それをペーターセンは意図的に逆手に取って、そういうカット割りを見せたがストーリィが進むにつれて
「私は彼がいたずらしたなんてどこでも言っていないぞ」
というようなトリックを仕掛けてくるのだ。
これがカット割りでストーリィを語るというテクニックだ。
ペーターセン監督は「プラスティックナイトメア」でもそうだったが、こういう「映画を見る人が無意識のうちに身につけている映画の文法」を逆手に取るトリックをあちこちに散りばめている。
こういうのをこの世界の用語では「モンタージュ技法」という。
これはエーゼンシュタイン監督が「戦艦ポチョムキン」という映画で始めた技法だ。
それ以前の映画はバスターキートンやチャップリンなどを観ればわかるように、基本的にカットを割らない。
ひとつのシーンをひとつのカットで構成する。
だからサイズはほとんど役者の全身のサイズで、顔面の演技を細かく見せたいときだけバストサイズのショットに乗り替わる。
映画のカットにはそれだけの種類しかなかったのだが、エーゼンシュタインはひとつのシーンを細かいカットに分解して、そのカットも「戦艦全景」の超ロングから「銃殺隊員の目もと」というような超クローズアップまで様々なサイズ、アングルのカットを組み立てて、全体として組み合わせでひとつの情景を描き出すことに成功した。
船上の厳しい人間関係の対立をクローズアップで見せておいて、突然戦艦全景の大ロングのカットを挟むことで彼らの相克が非常な孤立した世界で起きているという絶望感を、ナレーションも字幕も使わずに表現できることを見せた。
これがモンタージュ技法の誕生だった。
ブライアン・デ・パルマ監督は「アンタッチャブル」という映画で、この「戦艦ポチョムキン」のオマージュとして大階段を落ちていく乳母車のシーンを作った。
実はあらゆる監督が「映画の文法」として必ず学ぶし、我々観客は知らず知らずのうちに「こういうカットはこういうことを意味している」ということを学習して身につけている。
それほどエーゼンシュタインの「モンタージュ法」は映画の強い常識になっているのだ。
そしてペーターセン監督はその映画の技法を完璧に学んで、忠実にそれを再現できるだけではなくそれを逆手に取って様々なトリックを仕掛けてくるのだ。
この「ザ・シークレット・サービス」という映画はぽかんと口を開けてぼんやり観ていてもすごく楽しめる映画だ。
とりあえず観ている間は退屈しない。
しかし映画や映像に志がある人、あるいは映画に興味が有って映画の構造を知りたいと思っている人は、是非この映画の全カットのサイズとアングルに注目して細かく分析しながら観てもらいたい。
そうすると、観客は知らず知らずのうちにこの技法で思考を誘導されているということにいくつか気がつくポイントがあるはずだ。
この映画のディテールについてもう少し続ける。
まずこのシークレットサービスという組織の実体だ。
大統領の警護任務に就く特殊部隊を「シークレットサービス」と呼ぶというのは随分前から知っていたが、その所轄組織は「司法省」ではなく「財務省」であるというのはこの映画で知った。
またシークレットサービスの本業は大統領警護ではなく、偽造紙幣の内偵であること、いつからか知らないがそれこそリンカーン時代のようなかなり前から大統領の身辺警護は警察官の管轄ではなく、この偽造紙幣査察官の組織が担当することになっているということもこの映画で知ったことだ。
そういうFBIや地方警察、CIAなどとも切り離された特殊な組織なのでメンバーは全員
「シグ・ザウエルM228」
というスイス製の自動拳銃を装備しているというのも、本当かどうかは知らないがなんだか説得力がある。
また女性隊員も含めて全員が、このアメリカでは珍しい銃と特殊警棒を携帯していることも後半のラブシーンで明らかになる。
彼らの装備を見るだけで「軍や警察、情報機関とは全く別の組織なのだぞ」ということがわかるのだが、こういうディテールへのこだわりがすばらしい。
この映画は前半そういうディテールの積み上げに感心し、ペーターセン監督のトラップに翻弄され、あれよあれよといっているうちに後半のイーストウッド、マルコビッチ二人の火花を散らすような攻防戦へとなだれ込んでいく。
ラストシーン、マルコビッチ演じる『ブース』はイーストウッドが防弾チョッキを着ていることを咎めて
「お前は命を張っていない、このゲームはお前のルール違反でご破算になってしまった」
と怒りはじめる。
しかし警護任務中の警護官は全員防弾チョッキを着けていることは、警護任務では常識なのだ。
いくら銃で武装していても最後の最後には「自分の体を盾にしなくてはならない」という訓練を彼らは受けているはずだ。
だから任務中は常に防弾チョッキを着けているはずだ。
いくら防弾チョッキといっても、着けていても至近距離で撃たれたら鉄のカケヤで殴られるくらいの衝撃はあるはずだ。あばらの2〜3本は折れるし、チョッキで銃弾が止まってもしばらくは歩くこともできないだろう。
映画でよく撃たれても「チョッキを着ているから平気さ」なんて涼しい顔をしているシーンがある。
イーストウッド自身の「荒野の用心棒」シリーズでもそういうシーンが有ったはずだ。
しかし実際には鉄製のチョッキを着ていたって、胸板を金属バットで思い切り殴られるくらいの衝撃はあるはずだ。この映画は正確にそれを見せてくれた。
そしてイーストウッドの方は「体を張っている」という意味では全くルールに則っていた。
しかし彼はゲームよりも任務を優先したということだろう。
暗殺専門の『ブース』にはそれがわからなかったのか、自ら演出した「ゲーム」にこだわりすぎて目が眩んだのか。
最初から狂気に捕われた有能な暗殺犯と、老いてはいるが老練で冷静だった警護官の二人にラストで決着がつく。
この『ブース』を演じたジョン・マルコビッチはベルトリッチ監督の「シェルタリング・スカイ」をはじめ、「危険な関係」、「マルコビッチの穴」、「ある貴婦人の肖像」など芸術作品からアクション映画まで幅広くこなす職人芸的な役者さんだ。これほど個性が強い役者さんなのにこれほど芸域が広いというのも希有な人だと思う。
『ブース』役は映画がヒットしたのでマルコビッチのイメージを固定化しかねないリスクだった。
例えば若いが才能ある俳優だったアンソニー・パーキンスは「サイコ」が大ヒットしてしまい、その後精神を病んだ役しか来なくなってしまい、そういう役者さんというイメージ付けが出来上がってしまった。
当たり役が役者をつぶすという典型例になってしまった。
ところがマルコビッチがこんなにはっきりした悪役をやったのは後にも先にもこの映画ぐらいだったのではないだろうか。
どちらかというと「シェルタリング・スカイ」のような芸術志向の役者さんというイメージが強い。
「コンエアー」や「仮面の男」なんて怪作もあるが。
こういう同じような役を受けないところがこの人のクレバーなところなのかもしれない。
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