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スティング



監督 ジョージ・ロイ・ヒル
キャスト ロバート・レッドフォード、ポール・ニューマン、ロバート・ショウ

ディテールを積み上げていって爽快なストーリィテリングが
可能になることを実証してみせた快作

日本の地上波はあまりやらないが、CSのニュースチャンネルや海外の放送はよくティッカーという画面構成を使う。
海外のニュースチャンネルなどで画面の下などに帯を敷いてそこに上の本画面とは無関係に、速報ニュースを文字で流したり、株価速報を流したり、文字が大抵は右から左へどんどん流れているあれをティッカーという。

地上波でも地震速報や選挙速報の時には稀にああいうティッカースタイルの画面を使う。
私は個人的にはあの画面はテレビを見づらくするだけで情報価値が上がるとも思わないし、今は速報が欲しいんだったらインターネットの方がテレビの文字情報よりもさらに早いので、ティッカースタイルはもう衰退していく表示法だと思っているが、高齢者や海外には未だにインターネットに触れることができない人が何十億人もいるわけだから、向こう10〜20年はこのスタイルは消えることはないだろう。


というような話はどうでも良いのだが、あの目障りな文字が流れる帯をなぜ「ティッカー」と呼ぶのだろうか。
その由来は実は結構古い。

昔、インターネットもテレビもなかった時代、もっとも速報が早く流れるのは電信だった。
この電信というのは要するにニュース電報なのだが、どういうふうに流れるか見たことがあるだろうか?
20世紀の初頭に電話の発明者のベルが作った会社はテレタイプなどの有線の電信事業と合わせて
「ベル電信電話会社」
という会社になった。これが後にAT&Tになり電話、電報、国内国際通信回線、インターネットまでを広く扱う会社になった。
NTTの前身の「日本電信電話公社」(通称電電公社)もこのベル電信電話会社をモデルに立ち上げられた。

この会社は後に事業を拡散していくのだが、最初の事業は社名の通り電話と電信を扱う会社だった。
電信というのは、電報も扱うがそれよりももっと需要が大きかったのは電信ニュースだった。
テレビもインターネットも無い時代でも、ニュースの速報に対する需要は高い。
有名な話ではワーテルロー決戦の結果をいち早く聞いたネイサン・ロスチャイルドが失意の投げ売りを演じて、株の暴落を呼びそこに買いを入れて一夜で巨額の利益を得てロスチャイルド財閥の基礎をなしたという逸話がある。
政府の金融政策や戦争、国際政治の急変、株価の変動などのニュースは、20世紀の始めには電信で流されその情報を多くの人が高い金を払って買った。

その電信はモールス式の時代から、タイプライターで自動的に通信信号に置き換えられるような電信機(テレタイプ)が発明され、さらにスピードアップした。
受信側はその電信を受けて信号を紙テープで出力した。
この紙テープは幅1センチほどの細い紙テープにパンチで穴をあけて点字機のように出力された。
受け手はその紙テープを読んでニュースを知った。

この紙テープを吐き出すパンチャーマシーンはカタカタと大きな音を立ててニュースを出力した。
だからこの機械はティッカーマシーンと呼ばれた。
「カチカチいう機械」
という意味だ。
そのまんまなネーミングだが、それが由来になって紙テープ式のニュースをティッカーニュースというようになった。
それがそのままテレビのあの鬱陶しいインポーズになって、その名残りであの文字ニュースはティッカーと呼ばれるようになった。


この映画はこのティッカーマシーンが現役で速報を伝えていた時代の話だ。

ティッカーマシーンがどんな機械かは映画を観て確認して欲しい。
この映画ではこのティッカーマシーンが重要な小道具になっているからだ。

ストーリィはこんなふうに始まる。
チンピラ詐欺師のロバート・レッドフォードが師匠と仰ぐ黒人老詐欺師と組んで、たまたま引っ掛けた大物ヤクザ(ロバート・ショウが貫禄満点の演技)に師匠を殺され、身ぐるみはがれた恨みから復讐を誓う。
しかし相手は大物ヤクザなので、チンピラ詐欺師一人ではどうにもならない。そこで詐欺業界(?)の伝説の大物のポール・ニューマンに助太刀をたのんで、復讐を果たすという流れだ。

この時にポール・ニューマン演じる「伝説の詐欺師」は
「相手は大物だ、仕事に成功しても一生追われることになるから、ケチな小銭をだまし取るくらいでは割に合わない。どうせやるなら大掛かりな仕掛けをして、空前の大金をだまし取ってやろう。」
と提案する。

この仕掛けのことを彼らは「スティング」と呼んでいる。
「ひと刺し」
というくらいのことだろうが、しかしその仕掛けは確かに大きな仕掛けになっていく。
非公認の競馬賭博場をでっち上げ、そこに出入りする客も全て詐欺師仲間から選りすぐりのメンバーを集め、ビルの一室を借りて本物の賭博場のようなセットを作ってしまう。
この賭博場のネタが例のティッカーマシーンだ。

当時は競馬の結果も電信ニュースで全米に配信されていた。
ポール・ニューマンらは本物の電信会社にまで手を回して、そこから本物の競馬結果の配信を受けてそれを時差をつけて流して金を賭けさせるという仕掛けを構築していく。
この映画はまず、この仕掛けを組み上げていくプロセスですでにワクワクさせる。
この仕掛けがあとでどういう意味を持ってくるのだろうか?
そういうことを思いながら観ていると、もう画面から目が離せなくなってしまう。

やがて絶対にばれない完璧な仕掛けを作って、獲物の大物ヤクザも狙い通り仕掛けに引っかかってきた。
しかしそこにはこのヤクザが放った刺客ヒットマンなど予期せぬ障害も現れ、やがて計画そのものが破綻するような危機が訪れる。
そこでこのニューマンたちはどうやってこの危機を切り抜けるのか・・・
ここまで来るともうトイレに行く時間も惜しいくらいに画面に惹き付けられてしまうだろう。

そしてラストシーンの大どんでん返しになっていく。
「あっ、こいつらもグルだったのか!」
という驚きがあるに違いない。

この映画は初めて観た時の印象が強烈だった。
ロバートレッドフォード特集というような名画座の企画で観て
「華麗なるギャッツビー」
と2本立てだった。
1本目の「ギャッツビー」は悲恋を扱った映画だったのだが、観ていてすごくフラストレーションがたまる映画だった。
「あんな良い男なのに、あんなくだらない女に命なんかかけるなよ!」
と思わず画面に突っ込みを入れたくなるような、もやもやが残る作品だった。
ところが2本目の「スティング」を観て1本目のもやもやはキレイに吹っ飛んでしまった。

それくらいこの作品の印象は
「スカッとする」
の一言に尽きる。
別に派手なアクションがあるわけでもなく、何かが爆発するわけでもない客観的に考えたら地味な映画のはずなのだが、下手なアクション映画よりもよっぽど爽快感がある。
実はこの二本立てを考えた映画館の企画担当はすごくいいセンスの持ち主だったんじゃないだろうか。
こういう爽快な気分になれるから映画は止められないのだ。

映画というのは原作小説があってそれが映画化されるというパターンが多いのだが、この映画はヒットしたおかげで逆に小説化され、その小説もヒットしたという面白い記録も持つ。
それくらいこの物語は今観てもまったく古さを感じさせないような力強さを持っている。
もしまだ観ていないんだったら、映画の楽しさを半分しか知らないようなものだ。
是非観てみることをお奨めする。














大いなる幻影


監督  ジャン・ルノワール
キャスト ジャリアン・カレット、ディタ・パルロ、ジャン・ギャバン、エリッヒ・フォン・シュトロハイム

「神々の黄昏れ」を印象派絵画のような美しい構図で描いた佳作

「惻隠の情」という言葉がある。
「惻隠の情をもって武士となす」という使い方をする。
「惻隠の情」とは平たくいえば「武士の情け」という意味だ。
実際には「武士の情け」という言葉はかなり講談的で、教養人であることに矜持を持っている実際の武士階級は「武士の情け」などという庶民の言葉を使ったろうか。
「松の廊下」で浅野内匠頭が「武士の情けでござる、せめて一太刀!」と叫んだというのは、後年の歌舞伎作者の創作だったはずだ。少なくとも松の廊下で浅野内匠頭が「武士の情けを懇願した」というのはその言葉の精神とはちょっと矛盾がある。

「惻隠の情をもって武士となす」という言葉の意味は、
「勝って敵の敗将に情けをかける、その心根があってこその武士である」
という意味で「情けをかける」というのは命を助けてやるという意味ではなく
「敵の名誉を重んじる」
という意味だ。

この日本の中世の戦闘者階級の美意識というのはなかなか今日の言葉に置き換えにくいというか、今日の日本人とこの時代の日本人はまるで別の民族であるかの様に精神構造が全く違うのでこの言葉は翻訳が難しい。
だから「武士道」という言葉は今日では誤解されて使われることが多いのだが、本来の武士道とは「暴力的に振る舞う」という意味ではない。
ましてや軍艦旗を振り回して黒い街宣車に乗って国会議事堂の前をやかましい音楽をかけて走り回ることと「武士道」はなんら関係はない。

彼らの街宣車にはよく「武士道」なんて書いてあるが、しかし彼らの言うことを聞いているとロシア人を「露助」と呼んだり中国人を「シナ人ども」と呼んだりする。
「露助やシナ人どもが神国日本を物理的にも精神的にも侵略している」
などという。
しかし彼らが本当に武士道を心得ているなら、「敵」であるロシア人や中国人をこんな侮辱的な呼び方をしてはならない。
なぜなら「敵の名誉を重んじる」のが武士道だからだ。
「惻隠の情なく刀槍を振るうは野盗のごときものなり」
ということになる。


この精神構造を考えるために例を曳く。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」という小説がある。
日露戦争という、日本の建国以来最大の危機に際して「武士階級」出身の陸海の戦士はどのように戦ったかという小説なのだが、いわゆる戦記物と違って司馬遼太郎らしいリアルな人間の心情が描き出されているのが面白い。

この明治時代半ばの日露戦争の頃はまだ、陸軍も海軍もその幹部は「薩摩士族出身」「会津士族出身」など武士階級出身者が多かった。だから彼らの多くは「武士道」を感じさせるような行動を見せた。

例えば日本海海戦でバルチック艦隊を完全包囲し、主力艦を撃沈または行動不能にして、もはや戦勢は日本海軍の圧勝という場面、降伏し始めたロシア艦隊から高速巡洋艦が一隻離脱して逃走を図った。
それを発見した第二艦隊の司令が
「撃て!」
と命じたところそばにいた士族出身の参謀が
「長官、あれはネボガトフ提督が皇帝陛下に最後の奏上の使者を出したのではありますまいか。一隻くらい見逃してもかまうまいと思いますが。武士の情けです。」
それを聞いた司令が後悔して
「気がつかんじゃった、撃っちゃいかん!」
と命令を撤回するという下りがある。

敵将が敗戦の報告を主に送るのを見て、それを撃つのは惻隠の情をわきまえていない。
敗戦の報告をするのも武士の義務であり、その名誉にかけてすることだからそれを重んじなければならない。たとえそれがロシア人でも同じことである。
これが明治時代の日本人の精神構造だった。


ヨーロッパにも「騎士道」という言葉があり、その精神は日本の「武士道」と非常に似た部分があった。ナイトの称号は今日では名誉称号の様になっているが、かつては文字通り騎士の位でありその職責は王位にあるものを守り助ける名誉ある階級だった。

その称号を授かるものはたとえイギリス人であれフランス人であれ、ドイツ人であれその名誉は尊ばれなくてはいけない。またヨーロッパの貴族称号を持つものは合計でも数百人しかいなかったから、その全ては国籍を越えて知り合いだった。
この映画では冒頭フランス貴族の航空偵察任務を帯びた将校を撃墜したドイツ空軍将校が
「夕食に招待したい」
と下士官に命じるシーンがある。
勇敢な偵察任務を敢行したフランス空軍将校はしかるべき名のある貴族であるに違いない。ならばドイツ貴族である空軍将校はそのフランス人を夕食に招待し、その勇敢な行動を賛美したい。
この時代の貴族的な将校にはこういう精神構造がある。

やはりフランス空軍の将校は有名なナイトの家系だった。
ドイツ空軍の将校はその親戚の知り合いの動静を知りたがる。
しかしこのフランス人貴族に同行したフランス庶民出身の下士官(ジャン・ギャバン)にはそんな話は与り知らぬ話だ。
彼らは敵ではないか。
庶民階級出身の彼にはそういう感慨しか無かったろう。
そしてその感覚こそ20世紀的な普遍的な感覚なのだ。

この階級の話は収容所に入ってからも連綿と続く。
ドイツの空軍将校で貴族出身の収容所所長は、フランス人の脱出計画を疑う。
しかしフランス貴族出身の将校に
「企みは無い」
と宣誓させてそれ以上の捜索を中止してしまった。
「名誉ある将校が神に誓ったのだから、それ以上の捜索は無用である」
という理由だ。

この将校は国籍を信じていない。ドイツ人だからという理由で同国人を信用していない。
しかし同じ貴族階級出身者であるからという理由でフランス人将校を信じきっている。
貴族階級出身者であり、騎士道を心得たものはその信義を裏切ったりはしない。たとえ今は敵国同士のドイツ人とフランス人であろうとだ。

ただし庶民階級は同国人であろうと信用していない。また庶民階級は同国人でも貴族階級を信じていない。
これは中世的ヨーロッパ騎士道の「大いなる幻影」だ。
滅びゆく貴族階級と、新興プチブル階級、さらにその下の新庶民階級の相克の物語だ。

この映画のルノワール監督は確か画家のルノワールの甥に当たる。画家ルノワールの息子だ。
(このくだりちょっと記憶違いがありました。お詫びして訂正します)
だからというわけではないだろうが、この監督の構図は印象派画家のように美しい。
例えば捕虜収容所の行進からパンして兵舎の向こうから向かってくる隊列に移動するカットの大掛かりな美しさは、最近の映像作者には無いような手の込んだ仕掛けがしてある。
全てタイミングを合わせて何百人もの役者を動かしているのだ。
無編集でワンカットでこのシーンを撮影しているので、このシーンの撮影には相当時間がかかったはずだ。
何百人が息を合わせなくてはいけないからだ。
このカットには「夜警」という名画と同じような美しさがある。

他にもいくつかこの映画には美しいカットがあってやはり血は争えないなと思う。

しかしこの映画のテーマ自体はヨーロッパ的騎士道のたそがれを描いた映画であり、愛国主義、国粋主義という下世話な感情によって「騎士道」という惻隠の情が忘れ去られる過程を描いている。 こういうものはやはり19世紀的な遺物であり、所詮20世紀の近代の世界にはマッチしないものなのだ。
その象徴としてフランスのニューエイジのスターのジャン・ギャバンが登場している。
正直私のような世代にとってもジャン・ギャバンはオールドタイマーなのだが、この時代の惻隠の情を知る人にとっては新世代なのだろう。
そしてそういうものはもう「大いなる幻影」になってしまった。
20世紀の日本人にとって「武士道」という言葉が単なるフィクションになってしまったように。

日本人は今は葉隠れという書物によってしか「武士道」を知り得ないが「葉隠れ」はもっとも武士道を語るにふさわしくない書物であるということすら今の日本人は知り得ない。
しかたがない。
それも「大いなる幻影」なのだ。この映画は美しい印象派的構図で語られた滅びゆく武士道の映画なのだ。














ザ・シークレット・サービス


監督  ウォルフガング・ペーターセン
キャスト クリント・イーストウッド、ジョン・マルコビッチ、レネ・ルッソ、ディラン・マクダーモット

カット割りで心理描写をすることを知っている玄人監督の渾身の作

以前アメリカ映画はほとんど外国人監督が撮っているということをここでも触れたことがある。
元々ハリウッドというところは、外国人監督だろうがこだわりなく才能を受け入れるところだったのかもしれないが、特に80年代の末からはアメリカ人のアイデアは枯渇してしまったのかと思うくらい、アメリカ人監督は鳴かず飛ばずになってしまい、かわりに外国人監督が次々にヒットを飛ばしているという状況が始まった。
この傾向は、今でも続いている。

そのハリウッドの主流派になってしまった外国人監督の中でもこの、ウォルフガング・ペーターセンは先駆けの部類だと思う。

元々西ドイツの独立系のプロダクションで制作した「Uボート」という映画が、ドイツ語オリジナルであるにもかかわらず本国だけでなく世界中でヒットした。この作品がペーターセンの名前を一躍世界的に有名にした。
この映画自体は潜水艦戦をもっともリアルに描いた名作「眼下の敵」を考証的にも、映画の質的にも上回ってしまうような快作だった。
同じ頃にドイツ国内のテレビドラマだがナターシャ・キンスキーのデビュー作「危険な年頃」の監督としてもセンセーショナルな話題になっていた。
ドイツ時代からこの人は才気煥発という感じの人だった。

このペーターセンの才能に目をつけたハリウッドが、アメリカに招いて作らせた第一作が「ネバーエンディングストーリィ」だった。
この作品はペーターセンと同じドイツ人の童話作家、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の映画化で、こういう素材を選ばせるところにハリウッドの気の遣い方が伺える。
若い巨匠はこの期待にも応え、「ネバーエンディングストーリィ」も大ヒットにしてしまった。
(ミヒャエル・エンデはきっと不満だったろうが)

あとの作品は「プラスティックナイトメア」「第5惑星」「アウトブレーク」「エアフォースワン」「トロイ」など、この監督は作る映画がどれもこれも評価が高いという希有な監督になった。
私も知っている範囲ではこの監督の作品で外れは今のところひとつも思い当たらない。
(ただし、「ポセイドン」だけはかなり厳しい評価を受けているようだ。私は観ていないので何ともいえないが、そのうち観てこの部分後日加筆するかもしれない)

その作品のラインナップの中で、私が一番好きなのがこの「シークレットサービス」という映画だ。


ストーリーボードを説明すると
「主人公は老いた財務省通貨監視官(シークレットサービス)だが、若い時にJ.F.ケネディの護衛任務に就きダラスの町中で白昼目前の大統領を暗殺されるという体験をし、心の傷を負っている。
今ではすっかり老いて定年退職までの日数を指折り数える日々だったが、ある時そんな彼に『ブース』を名乗る男から1本の電話がかかってきた。
『お前とゲームをしたい、俺は大統領を殺す。お前は命をかけて守れ』
この電話は単なる脅迫ではないことが明らかになってくる。そして偽造紙幣内偵から大統領警護の任務に戻されたイーストウッドと『ブース』を名乗るマルコビッチの間で、しのぎを削るような攻防戦が展開される」
というような始まりだ。

『ブース』はリンカーン大統領をデリンジャー拳銃で撃った暗殺犯の名前だ。
やがてこの男は『ウエットボーイ』という隠語で呼ばれるCIAの暗殺班の実行部隊員だったことがわかる。
国家から警護任務を与えられて失敗した男と、暗殺任務を与えられて逆に国家から証拠隠滅のために消されようとしている男が、現職大統領の命をかけて再度リターンマッチを繰り広げる・・・
というこのテーマだけですでに熱くなってしまうというか、ワクワクせざるを得ない展開だ。

ところがこのペーターセン監督という人の非凡なところは、こういう設定のウエットな部分に全く頼らないで、非常にクールにというかドライにストーリィを展開していく。
重要なのは感情ではない、心理を克服するスキルなのだというようなテーマが繰り返し展開される。

例えば、若い捜査官に捜査手順を教え込もうとするイーストウッドと助手の会話。
船中でとらえられた潜入捜査の助手を「撃ち殺せばお前は味方だと信じてやる」といって銃を渡されたイーストウッドは助手の頭めがけて、引き金を引く。
銃は空だったわけだが、この助手は納得していなかった。
「あの銃が空だとどうしてわかった? 重さか?」
「さぁ、一発くらいは入っていたかもな。重さじゃ一発の違いはわからない」
と意地悪く笑う。すると助手はすくみ上がってしまう。
しかし本当は「銃は空だ」と確信していたはずだ。
目的は「本当に裏切らないかテストする」ということだから一発入った銃を渡したりするはずがない。
これが心理を克服するスキルだが、若い捜査官は相方に銃を向けられたことで心理的に参ってしまう。

この老練でタフな捜査官をイーストウッドが演じているのだが、実はイーストウッドはほぼ監督業に転向してしまい、純粋に役者として映画に出演するのはこの作品が23年ぶりだったのだそうだ。
もう監督として一流になりつつあったイーストウッドが、「戦略大作戦」以来の「役者」としてこの映画に参加したというのは、それだけこの脚本とペーターセンの監督としての技量に惚れ込んだということなのかもしれない。

そのイーストウッドは老いた捜査官を演じたのも画期的だった。
イーストウッドのイメージは「荒野の用心棒」であり「ダーティハリー」であり、この映画にもその時代の若いイーストウッドがケネディの護衛についているCG合成が使われていてそれも話題になったが、イーストウッドがこの映画で演じたのはタフで強面なヒーローではない。
若い頃はタフで強面だったが、今ではすっかり老いたという男を喜々として演じている。

大統領暗殺の予告が本物であることがわかり、その『ブース』を名乗る暗殺犯はイーストウッドにしか心を開かないことから、イーストウッドは偽造紙幣捜査から大統領警護任務に戻される。
ところが遊説の車に伴走して息があがってしまう。
タフで強面だったヒーローもすっかり老いたのだ。しかしこれがこの物語の重要なキーのひとつになる。
老いても心情だけは若い頃のタフで強面のままだ。
それで警護班の若いエリート上司とも衝突してしまう。
息があがって這々の体になるイーストウッドのカットに、車上で冷笑するエリート上司の顔がカットバックされる。

そのあと控え室で休憩しているイーストウッドに突然救急隊員が飛びかかってくる。
「心臓マヒを起こしてる患者がいるという通報が有ったんだ」
といいわけする救急隊員にイーストウッドは
「誰だ、こんないたずらをする野郎は?」
息巻くがすでにイーストウッドと衝突しているレネ・ルッソは
「野郎かしら?」
と皮肉る。イーストウッドはいたずらの犯人は男だと決めてかかっているが「私だってやってやりたい心境よ」ということだろう。

こういう会話が有って、しかも車上で冷笑する上司のカットバックがあるので、観客はこのいたずらは彼が仕掛けたものだと感覚的に思い込んでしまう。
どこにもそんな説明もナレーションもないにもかかわらずだ。
ところがずっと後になって、このいたずらはこの生意気な若い上司でも、レネ・ルッソでもなくあの『ブース』が仕掛けたものだということが判ってくる。
ここがカット割りの視覚的な示唆に観客がはめられてしまっているというトリックなのだ。
当然あの「車上であざ笑う上司」の短いカットは彼がいたずらの犯人であることを示唆するカット割りのはずだ。それをペーターセンは意図的に逆手に取って、そういうカット割りを見せたがストーリィが進むにつれて
「私は彼がいたずらしたなんてどこでも言っていないぞ」
というようなトリックを仕掛けてくるのだ。

これがカット割りでストーリィを語るというテクニックだ。
ペーターセン監督は「プラスティックナイトメア」でもそうだったが、こういう「映画を見る人が無意識のうちに身につけている映画の文法」を逆手に取るトリックをあちこちに散りばめている。
こういうのをこの世界の用語では「モンタージュ技法」という。
これはエーゼンシュタイン監督が「戦艦ポチョムキン」という映画で始めた技法だ。
それ以前の映画はバスターキートンやチャップリンなどを観ればわかるように、基本的にカットを割らない。
ひとつのシーンをひとつのカットで構成する。
だからサイズはほとんど役者の全身のサイズで、顔面の演技を細かく見せたいときだけバストサイズのショットに乗り替わる。
映画のカットにはそれだけの種類しかなかったのだが、エーゼンシュタインはひとつのシーンを細かいカットに分解して、そのカットも「戦艦全景」の超ロングから「銃殺隊員の目もと」というような超クローズアップまで様々なサイズ、アングルのカットを組み立てて、全体として組み合わせでひとつの情景を描き出すことに成功した。
船上の厳しい人間関係の対立をクローズアップで見せておいて、突然戦艦全景の大ロングのカットを挟むことで彼らの相克が非常な孤立した世界で起きているという絶望感を、ナレーションも字幕も使わずに表現できることを見せた。
これがモンタージュ技法の誕生だった。

ブライアン・デ・パルマ監督は「アンタッチャブル」という映画で、この「戦艦ポチョムキン」のオマージュとして大階段を落ちていく乳母車のシーンを作った。
実はあらゆる監督が「映画の文法」として必ず学ぶし、我々観客は知らず知らずのうちに「こういうカットはこういうことを意味している」ということを学習して身につけている。
それほどエーゼンシュタインの「モンタージュ法」は映画の強い常識になっているのだ。
そしてペーターセン監督はその映画の技法を完璧に学んで、忠実にそれを再現できるだけではなくそれを逆手に取って様々なトリックを仕掛けてくるのだ。

この「ザ・シークレット・サービス」という映画はぽかんと口を開けてぼんやり観ていてもすごく楽しめる映画だ。
とりあえず観ている間は退屈しない。
しかし映画や映像に志がある人、あるいは映画に興味が有って映画の構造を知りたいと思っている人は、是非この映画の全カットのサイズとアングルに注目して細かく分析しながら観てもらいたい。
そうすると、観客は知らず知らずのうちにこの技法で思考を誘導されているということにいくつか気がつくポイントがあるはずだ。


この映画のディテールについてもう少し続ける。
まずこのシークレットサービスという組織の実体だ。
大統領の警護任務に就く特殊部隊を「シークレットサービス」と呼ぶというのは随分前から知っていたが、その所轄組織は「司法省」ではなく「財務省」であるというのはこの映画で知った。
またシークレットサービスの本業は大統領警護ではなく、偽造紙幣の内偵であること、いつからか知らないがそれこそリンカーン時代のようなかなり前から大統領の身辺警護は警察官の管轄ではなく、この偽造紙幣査察官の組織が担当することになっているということもこの映画で知ったことだ。

そういうFBIや地方警察、CIAなどとも切り離された特殊な組織なのでメンバーは全員
「シグ・ザウエルM228」
というスイス製の自動拳銃を装備しているというのも、本当かどうかは知らないがなんだか説得力がある。
また女性隊員も含めて全員が、このアメリカでは珍しい銃と特殊警棒を携帯していることも後半のラブシーンで明らかになる。
彼らの装備を見るだけで「軍や警察、情報機関とは全く別の組織なのだぞ」ということがわかるのだが、こういうディテールへのこだわりがすばらしい。

この映画は前半そういうディテールの積み上げに感心し、ペーターセン監督のトラップに翻弄され、あれよあれよといっているうちに後半のイーストウッド、マルコビッチ二人の火花を散らすような攻防戦へとなだれ込んでいく。
ラストシーン、マルコビッチ演じる『ブース』はイーストウッドが防弾チョッキを着ていることを咎めて
「お前は命を張っていない、このゲームはお前のルール違反でご破算になってしまった」
と怒りはじめる。
しかし警護任務中の警護官は全員防弾チョッキを着けていることは、警護任務では常識なのだ。
いくら銃で武装していても最後の最後には「自分の体を盾にしなくてはならない」という訓練を彼らは受けているはずだ。
だから任務中は常に防弾チョッキを着けているはずだ。
いくら防弾チョッキといっても、着けていても至近距離で撃たれたら鉄のカケヤで殴られるくらいの衝撃はあるはずだ。あばらの2〜3本は折れるし、チョッキで銃弾が止まってもしばらくは歩くこともできないだろう。
映画でよく撃たれても「チョッキを着ているから平気さ」なんて涼しい顔をしているシーンがある。
イーストウッド自身の「荒野の用心棒」シリーズでもそういうシーンが有ったはずだ。
しかし実際には鉄製のチョッキを着ていたって、胸板を金属バットで思い切り殴られるくらいの衝撃はあるはずだ。この映画は正確にそれを見せてくれた。
そしてイーストウッドの方は「体を張っている」という意味では全くルールに則っていた。
しかし彼はゲームよりも任務を優先したということだろう。
暗殺専門の『ブース』にはそれがわからなかったのか、自ら演出した「ゲーム」にこだわりすぎて目が眩んだのか。
最初から狂気に捕われた有能な暗殺犯と、老いてはいるが老練で冷静だった警護官の二人にラストで決着がつく。


この『ブース』を演じたジョン・マルコビッチはベルトリッチ監督の「シェルタリング・スカイ」をはじめ、「危険な関係」、「マルコビッチの穴」、「ある貴婦人の肖像」など芸術作品からアクション映画まで幅広くこなす職人芸的な役者さんだ。これほど個性が強い役者さんなのにこれほど芸域が広いというのも希有な人だと思う。
『ブース』役は映画がヒットしたのでマルコビッチのイメージを固定化しかねないリスクだった。

例えば若いが才能ある俳優だったアンソニー・パーキンスは「サイコ」が大ヒットしてしまい、その後精神を病んだ役しか来なくなってしまい、そういう役者さんというイメージ付けが出来上がってしまった。
当たり役が役者をつぶすという典型例になってしまった。
ところがマルコビッチがこんなにはっきりした悪役をやったのは後にも先にもこの映画ぐらいだったのではないだろうか。
どちらかというと「シェルタリング・スカイ」のような芸術志向の役者さんというイメージが強い。
「コンエアー」や「仮面の男」なんて怪作もあるが。
こういう同じような役を受けないところがこの人のクレバーなところなのかもしれない。













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