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監督 スタンリー・キューブリック
キャスト キア・デュリア, ゲイリー・ロックウッド, ウィリアム・シルヴェスター, ダニエル・リクター
どこからきてどこへ行こうとしているのか、主は問われた
〜SF映画の枠をはみ出してしまった名作
この映画は封切り以来センセーショナルな話題を提供し続け、「SF映画の金字塔」という評価を恣(ほしいまま)にしながらも、単純なSFアクション映画を期待して見にきた多くの観客を失望させてきた。
この映画の評価で一番私が鮮烈に憶えているのは、日本のSF小説の重鎮である小松左京や福島正美らが座談会で
「取るにたらない愚作」
と斬って捨てていたものだ。
またこの映画の原案と共同脚本を担当したSF作家のアーサー・C・クラークは、続編の「2010年」の映画化ではキューブリック抜きを条件にし、映画の出来を聞かれて「良い出来だ、キューブリックがいないから」と答えたという。
この映画は無理矢理ジャンル分けするとSF映画ということになるのだが、なぜかSF作家の皆さんの評価が低い。
(しかし小松左京が「2001年宇宙の旅」のアンチテーゼとして上梓した「さよならジュピター」こそ愚作中の愚作であり、その同名の映画化作品は「クズ」以外の何者でもない。小松左京は私の好きな作家であり、好きな作品もあるのだがこの点に関しては彼の目は曇っていたとしか言いようがない)
これほど多くの観客を失望させながらも、「歴史的名作」という評価も消えないキューブリックという人の魅力は何だろうか。
「シャイニング」の映画化作品に失望したスティーブン・キングがやはり自分でプロデュースして撮り直した同名作品の「できに満足した」というエピソードがある。
しかし映画として観た時に「シャイニング」の再映画化版はキューブリック版と見比べると随分小振りなスケールの小さい映画になってしまった。
キューブリックはやはり表現が活字的ではなく映像的だということではないかと思う。
クラークが満足したという「2010年」はナレーションを多用してストーリーを進行する。
しかしキューブリックが主導権を持っていた「2001年」には説明的なナレーションは一切ついていない。
こちらの方が説明するべきことがらは遥かに多いのにだ。
ナレーションを使って言葉で理解させるのではなく、視覚的効果によって感覚で理解するのが映像的表現だ。
2001年の映画の中で唯一説明的な言葉が連ねられているのが「フロイド教授」が月面に向かうシーンのロシア人学者との会話と、クラビウス基地での会議シーンとムーンバスでの会話のシーンだ。
言葉による表現を一切排するといってもさすがにこれだけは説明しないと誰もストーリーに入ってこられなくなりそうだから、キューブリックの苦渋の妥協ということなのかもしれない。
「宇宙中継ステーション」でロシア人学者と久しぶりの再会の挨拶をしたあと「スミロフ教授」の質問は
「立ち入ったことを訊くが、クラビウス基地で何か重大な問題が起こっているのではないか?
うわさでは未知の伝染病が蔓延しているという話もある。あなたがそこへ向かうのはその問題のためではないのか?」
「申し訳ありませんがその問題について話すことはできません」
このくだりでこの打ち解けた会話が急に凍り付いてしまう。
これが「月で何か重大な事件が起きている」という最初の説明になっている。
そしてクラビウス基地での会議シーンではなんとこの「未知の伝染病」説が意図的に流された偽情報であることが判明する。
未知の伝染病よりももっと重大な事件がここでは進行しているのだ。
その伝染病よりも重大な事件とはムーンバスの会話で明らかになる。
「TMA-1」
と名付けられたその物体はチコクレーターの地下に「意図的に埋められて」いたという。しかも年代測定の結果それは400万年前のことらしい。
チコクレーターと聞くと宇宙開発に詳しい人ならそれだけでピンときてしまうような場所だ。
月面はクレーターだらけだが、この原因となった隕石は月の歴史を通じてまんべんなく降り注いだわけではなく、そのほとんどは30億〜10億年前に衝突が完了して、その後は隕石衝突はほとんど起きていない。
数少ない例外がチコとコペルニクスで、特にチコはアマチュア天体観測でも月に望遠鏡を向けると最初に目を引くクレーターだ。
この目立つチコの地下に非常に強い磁力を持った、観測可能な範囲で誤差無く1:4:9の3辺比をもつ直方体を400万年前に埋めた・・・
これは「隠すため」に埋めたのではない、「見つけてくれ」という意図で埋めたのだ。
このことが意図するのは「未知の知性との最初の遭遇の証拠」ということ以外にない。
(1:4:9は素数の1、2、3の二乗であり、磁気を発していたということはそういう観測能力があるものがここに訪れるかをこの設置者が知りたがっていたということだ。こういう数学的メッセージが、未知の知性体の最初の遭遇の時にメッセージに使われるだろうという話は、カール・セーガン教授の「コンタクト」という小説でも検証されていた)
チコクレーターは月の南半球にあり常に地球の方を向いている
またその光条は月の半球全体に届くほど長く非常に目立つ
クレーターができた年代も1億年前と月のクレーターの中では非常に新しい
この目立った特徴があるからアポロの着陸地点のひとつにも選ばれた
ここに強い磁力線を持った物体を埋めるということは設置者の意図は
「隠したかった」のではなく「見つけさせたかった」ということだ
この映画の原作になったのは、アーサー C.クラークの短編の「前哨」という小説だ。
この小説は月面の洞窟で人類が発見した機械が、人が触れたとたんに遥か遠くの宇宙に強力な信号を発信するという物語だった。
短編はこの信号は何を意味するのかはわからないが人類は自分たちの存在を誰かに知られてしまった・・・というところで終わる。
映画は「そのあとどうなったか」というストーリィだ。
同じくアーサー・クラークの小説の「幼年期の終わり」という小説がその状況のベースになる。
人類は一人で進化したのではなく、その進化は誰かに見守られて意図的に操作されていた・・・という話だ。
その状況説明が冒頭の猿人たちのシーンだ。
今から500万年前、東アフリカに大地溝体(グレートリフトバレー)が生まれ、アフリカはその背骨のように高い山脈で西と東に分断された。
大地溝体の西側は季節風が運んでくる湿気で深いジャングルを形成し、そこに住む霊長目の仲間は森で豊富な食糧に恵まれてチンパンジー、ゴリラ、ボノボのような種族に進化していった。
しかし大地溝体の東に取り残されてしまった種族は、乾燥によってもたらされた森の後退、大地のサバンナ化に適応して生きなければならなかった。
大地溝体の東側では森は枯れ、一面の草原と砂漠となりそこには数少ない草食動物とそれを狙う肉食獣が棲むだけの厳しい生態系になってしまった。
ここに取り残された霊長目の仲間は草原に適応するために直立歩行を身につけるが、それでもこの「エデンの園」の東に追われたアダムとイブの末裔は、100万年かけて飢餓の中で絶滅への道をゆっくり歩んでいた。
ある日、そこに正体のわからない「モノリス」が現れる。
モノリスは例の1:4:9の正確な三辺比を持ってそそり立ち、このアダムとイブの末裔達に何かの「作用」をする。
やがて、この哀れな霊長目は「突然」、手に武器を持つことを思い立ち、これが飢餓から彼らを救い、敵対する猿人のグループを追い払ったり天敵に打ち勝つ手段をもたらす。
この劇的変化が今日の人類の繁栄に繋がる。
この映画のバックグラウンドは、人類の発生には「ミッシングリンク」が存在するということが永らく論争の種になってきたということだ。
ミッシングリンクとは猿人から旧人に進化し旧人から新人に進化し、しかもその全ての種族が絶滅したにもかかわらず、ホモサピエンスという種族だけが奇跡的に生き残ったという謎のことだ。
アフリカのサバンナにはライオンをはじめネコ科動物が6種もいる。
さらに霊長目は、分類法にもよるが180~200種いる。その中でヒト科は、ホモ・サピエンスたった1種だ。この孤独な現状は、明らかに異常だ。
(るいネット、阪本剛氏の投稿より)
人の進化の道筋は同じ環境に住む他の動物の進化と比べるときわめて異様だ。
その謎は「誰かにコントロールされていたからだ」と考えないとつじつまが合わないかもしれない。
そうだとすると誰がどんな意図で、そういうことをするのか、その事実は人類の未来にどういう影響を及ぼすのか・・・
その答えのひとつの可能性を思索したのがこの映画ということなのかもしれない。
その「コントロールした者たち」はきっとその結果を知りたがるに違いない。
その結果が出るには数百万年の歳月を要する。
ずっと監視しているわけにはいかない。
そこで彼らは月面に監視装置を置いた。
それはチコクレーターの地下に埋められ、彼らが作用をもたらした猿達がこの一番近い天体まで到達する文明を持ち、チコクレーターの磁気異常(Tycho Magnetical Anomaly、TMA-1)に気づくほどの科学力を持った時、モノリスは初めてその機能を果たすようにセットされた。
はたしてクラビウス基地の調査隊員とフロイド教授が写真撮影を始めた時に、モノリスは木星に向けて強力な電波を発信した。
その意味はわからないが、18ヶ月後に木星探査飛行が実施される。
ディスカバリー号は科学調査員3名を人工冬眠状態で載せ、2名の飛行士と最新鋭のヒューリスティカル・アルゴリズムコンピュータ(自律的学習能力を実現する演算手法を備えた電子計算機)HAL9000型コンピュータによって制御されて木星へと向かった。
その飛行の途上の船内の空気はなんとなく退廃的な感じがするのが私にはスゴくリアルに感じた。
勿論ボーマン、プール二人の飛行士は、実際のNASAの宇宙飛行士に取材して、本物っぽい前向きで精力的なイメージの演技をしている。
にもかかわらず船内が退廃的に見えるのは、この船が周囲数百万キロには人の姿どころか人跡すらない遥かに離れた辺境を飛行しているという隔絶された孤独感からきている。
以前モンゴルに行った時に月も出ない夜に、満点の星と鼻をつままれてもわからないような闇の中で
「この周囲60キロ以内には人の住む街も村も一切存在しない。光が全くないから星があんなに沢山見えるのだ」
と説明され、大変心細くなったことがある。
もしここで迷子になったら、誰にも発見されないで乾涸びてしまうかもしれない。
数千キロ四方は周囲は砂漠と草原だけだ。
60キロ四方に人はいないと言われただけでも、そんなに心細い思いをしたのだからましてや周囲数百万キロ四方に人跡のある場所はどこにもない、それどころか足がかりになる星すらないと思うと、その心細さは砂漠の真ん中に取り残されるのとは比較にならないくらいに違いない。
勿論、最新の科学で船内の環境は守られている。
飛行士達は船内環境の維持については充分な教育も訓練も受けている。
だから、論理的思考の半面では「心細く」などないはずだ。しかし感覚的にはこれまでの全ての人類の誰もが経験したことがないような辺境での孤立感を感じている。
このギャップがなんとなく気だるい感じになって現れるのだろう。
チェスをするボーマン船長、日焼けライトを浴びながら家族からのビデオメッセージを見るプール飛行士、船内をスケッチするボーマン船長、色付きマッシュポテトのような宇宙食を食べながら
「BBCホームサービス・モーニングニュース」
の「木星に向かう5人の飛行士達」という自分たちの番組を観る・・・
どれもスケジュールに沿った行動なのだろうが、なぜか飛行士達の表情に気だるさがある。
その孤立感は画面でも表現される。
船外活動をするためにポッドでディスカバリー号の外に出る飛行士、その瞬間カットは遥かにディスカバリー号が小さく見える遠景に切り替わり、小さな隕石がいくつか通り過ぎる。
そのBBCニュースでも興味深く取り上げられていた「6人目の搭乗員」である「ハル」は、これまでのコンピュータとは全く違う機能を持っている。
コンピュータは、少なくとも今日我々が使っているノイマン型コンピュータはあらかじめプログラマが組んだ手順にそって、問題を解決する、データを加工するなどの処理をあらかじめ決められたた通りに実行するだけだ。
あらかじめ何が必要か全て分かっていればこの単純強力なコンピュータは非常な威力を発揮する。
例えば今日の自動車工場、ここではほとんど無人であるにもかかわらずコンピュータによって数値制御されたロボットアームが車のシャーシ、ボディなどの溶接をかつては職人でないとできなかったような鮮やかな手つきでこなしてしまう。
こういう手順が決まった作業にはコンピュータは絶大な威力を発揮する。
しかし決まった手順しかこなせないコンピュータでは対応できない場面もある。
例えば宇宙飛行。
数学的な軌道に乗ってあらかじめ計算された位置に、決められた時間に到着する宇宙飛行は一見ノイマン型コンピュータにうってつけの作業のように見える。
しかしアポロ13号のようにそこで「酸素タンクの爆発」というトラブルが起きるとどうなるか?
コンピュータは全く何の役にも立たない。
それどころかアポロ13号のケースでは航路の大部分では、電力保持のためにコンピュータの電源は落とされていた。
こういう場合は結局人間が対処しないといけない。
人間とノイマン型コンピュータの違いは何か?
それは結局「自律的に問題解決の手順を見つける学習能力」を持つかに尽きる。
そこで「ハル」と呼ばれるHAL9000型コンピュータは、ヒューリスティカルなアルゴリズムを選択できるコンピュータとして、イリノイのプラントで製造され、宇宙船に搭載された・・・
という物語の設定になっている。
人間とコンピュータ、どちらが主人でどちらが補佐役か?
このテーマはSFだけでなく、社会学や労務管理など多くのジャンルで話題になるが、結局いわれるほどこれまでは「コンピュータが主人で人間は奴隷」という状況にはなっていない。
なぜならコンピュータは「主人役」が務まるほどの能力がなかったからだ。
しかし「自律的学習能力で問題解決法を自分で模索できる」コンピュータが本当に実現したらどうなるか?
まさに宇宙船の運行もコンピュータ任せで、人間はその補佐役、あるいはチェック役にならないか?
「HAL」はそういう問題も提起している。
しかしノイマン型コンピュータの長所は
「入力が同じなら常に同じ結果を算出する」
というように単純である点だった。
このノイマン型コンピュータの単純さに比べて、コンピュータが自律的学習能力を持つと同じ入力をしても、「いつ入力をしたか」によって違う答えが出てくる可能性が出てくる。
つまり人間と同じくらい賢くなると、人間と同じようなミスをする可能性が出てくるのではないかというテーマが出現する。
「ハル」はまさにミスをした。
AE-35ユニットの故障を予言したが、交換回収したAE-35ユニットは過負荷をかけても全く故障の予兆を示さない。
地上で並行運転している同型のHAL9000型コンピュータは、船内に搭載されているHALの故障の可能性を示唆した。
しかし「ハル」は「HAL9000シリーズは一切のエラーやデータの劣化を起こしたことがない」と主張し「エラーをするのは常に人間である」と取り合わない。
ポッドに隠れてボーマン船長とプール飛行士が
「もし万一、HALにやはり異常があるとなった場合、取るべき手段はHALと船のコントロール回線の切断以外にないのでは?」
という相談をする時にその会話の内容を、お得意の「自律的学習能力による問題解決手順の選択」により読唇術で読んでしまった。
船外活動でプール飛行士がポッドから出たあと、ポッドが勝手に動き始めてから十数分間、映画には全く音がついていない。
聞こえるのはポッド内部のセンサーの音とディスカバリー号内部の生命維持装置のアラート音だけだ。
これだけ長い時間無音が続くのもサイレント映画以降では史上初ではないか。
この十数分間は息が詰まるような緊迫感で迫ってくる。
キューブリックの面目躍如というシーンだ。
この辺境宇宙で起きた「殺人事件」について、ボーマン船長と「ハル」の間にかわされる会話でその動機が明らかにされる。
「ハル」は
「この任務はあまりにも重要なので、あなた達人間にジャマさせるわけにはいかない」
とその動機を明らかにした。
嫌悪でも憎悪でもない。
自己保存の本能ですらない。
「ハル」は任務達成の義務感のために「障害」である人間を排除しただけだ。
それが合理的であると判断したから、その「アルゴリズム(問題解決の手順)」を実行した。
しかしこの飛行プログラムのミッションは「最初の異星の知性体の証拠が示した痕跡を確認する」ということであり、「人間と異星の知性体の最初のコンタクト」が目的であったにもかかわらず、「人間」というファクターが脱落している。
コンピュータが、本当の意味で「主人」になって「人間が奴隷になった」瞬間だった。
バウンティ号の如く叛乱を起こした人間は結局この新しい「暴君」を切断して、コントロールを取り戻す。
そしてボーマン船長がたったひとりで、木星軌道上で「モノリス」を発見し、そこから「言葉にできない」体験をする。
かつて東アフリカの草原で絶滅寸前だった人類が想像だにしなかった新しい進化を遂げたのと同じように、ここでもこれまで想像もしなかった全く新しい進化を遂げるという物語だ。
この映画が興味深いのは、SF映画であるにもかかわらず実際のNASAの航空技術者やコンピュータ技術者とディスカッションして未来のウエアデザインを予想しているということだ。
HALをはじめスペースシャトルや月連絡船などのコックピットは、針が振れる円形メーターが一切排除されコンピュータによる画面表示で航行情報を全て表示するという考え方は、今日の
FBW(フライバイワイヤ)のジェット旅客機のコックピットの様子を見事予言した。
HALもコマンドラインを使って操作する当時のコンピュータと違い、グラフィックユーザインターフェイスを備えたコンピュータだ。入力はマウスではなく音声であるという点が違うが、そういうコンピュータが主力になるという予言は1968年当時としては斬新だった。
(むしろ今日では当たり前すぎて驚きがないが、当時は異様な話だったに違いない)
この映画の際立った特徴は画面の隅々にまで「ピントが合っている」ということだ。
例えば冒頭の宇宙中継ステーションに到着する「パンアメリカン航空」のスペースシャトルが、ステーションの回転にあわせてドックに着陸するシーン、
月行きシャトルが月面を捉えてクラビウス基地へ降下するシーン、ディスカバリー号のEVA(船外活動)のシーンなど、模型とペイントグラフィックを多用した特撮シーンだけではない。
冒頭の「フロントプロジェクト」という言葉を有名にした東アフリカのサバンナのシーンとか、HALコンピュータの「ロジックセンター」の室内に入っていくボーマン船長のシーンとかが私は印象に残っている。
これはビデオではなく一度映画館のスクリーンで確認するべきだと思う。
いずれのシーンもこの深い被写界深度を得るために画面から観る印象よりも遥かに強い照明を使っていた筈だ。
深い被写界深度を実現して画面の隅々までピントを合わせるためには、絞りを絞らなくてはいけない。そのために強い照明を当てるとそれは俳優さんの演技に影響する。
船外活動のシーンは、「宇宙の遮るものがない太陽の強い直射」という設定で逃れられるかもしれないが、船内やエンディングのロココ調の部屋のシーンでは俳優さんはまぶしいという顔はできないからかなり苦しかったのではないかと思う。
ロココ調の部屋のシーンでは照明は床からの間接照明で当てられていて、人物に影がないのもこの非現実感を表現している。
こういう映画人ならではの斬新な撮影技術はなかなか解説したものがないが、実はこの映画の雰囲気を決定している大きな要素だと思う。
この映画を語る時に模型を使った特撮の技術とか、スリットスキャンとか、無重力の表現を実現したモーションコントロールのカメラワークとか、そういう技術ばかりが語られるが、同じような模型と特撮技術を使って「キューブリック抜き」で撮影された「2010年」では、この異様な雰囲気がほとんど失われて、「普通のSF映画」になってしまっているのを観ると、やはりこれは映像屋としてのキューブリックの感覚が生み出した作品なのだと感じる。
封切り公開のときの一般観客の評価は今ひとつで興行的には失敗だったこの映画だが、フォックス映画を傾かせた「クレオパトラ」とは違い、結局息が長いヒット映画となりMGMの代表作品になった。
また原作者のA.C.クラークをはじめSF作家達には総スカンを食らった「非SF的」な映画であったにもかかわらず「名画」の評価を恣にし、そのSF作家達が思い通りに作った「2010年」や「さよならジュピター」などとは比べるべくも無い力量差も感じる。
これらの映画と比べて観てみるといいと思う。
やはり映画は映像屋の感覚こそ全てであり、SF屋やスリラー屋の感覚とは全く違う表現形態なのだと感じる。
ちなみにほぼ同時期に出版された「2001年宇宙の旅」というアーサー・C・クラークの小説は、なかなか読み応えがある名作だと思う。
これは映画の原作でもないし、映画のノベライズでもないらしい。映画と同時進行で書き進められたクラークの考えによる小説ということで映画とは別物ということらしいが、小説として読めばこれもなかなかの名作だ。
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