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スパイダーマン
スパイダーマン2
スパイダーマン3



監督 サム・ライミ
キャスト トビー・マグワイア, ウィレム・デフォー, キルスティン・ダンスト, ジェームズ・フランコ

手練の監督にかかればガキ向けコミックスも
こんな面白い映画になるという件について

最近では日本のアニヲタ文化がヨーロッパだけでなく、アメリカにまで浸透しているようで5歳の次男が夢中になって見ているカートゥーンネットワークで流れるアメリカ製アニメも絵柄がアメリカ的白痴様デザインから日本的ロリコン様な絵柄に変化してきている。
パワーパフガールとか、Puffyアミユミとか・・・。

なんてアニメ考はどうでもいいのだが、アメリカには日本やヨーロッパとも違う独自のコミックス文化というものがある。イメージ的にはスーパーマン、バットマン、スパイダーマンのようなものを連想しておけばかなり正しい。これらのコミックスはペーパーバック本としても売られているが、夕刊紙の最終面のオマケ紙面のようなところにも連載される。
どちらかというと、コミックスはガキ向けだし夕刊紙は「文字を読むのが苦手な人」向けのサービスである。

だからアメリカではコミックスを大の大人が電車の中で読んでいるのは「非常に奇異な風景」ということになる。日本のコミックスの事情はアメリカとはかなり違うのだが、そういう事情を知らないアメリカ人が日本に来て、電車の中でネクタイを締めた普通のサラリーマンがコミック雑誌を読んでいるの見て「子供みたい」と呆れるのは、単純に両国の文化の違いである。


という話もどうでも良いのだが、要するにアメリカのコミックスの主人公はスーパーマンにせよ、バットマンにせよ中途半端に苦悩したりするが、結局は不撓不屈のヒーローであり、物語は勧善懲悪の単純な物語であり、正義の味方は善良な市民の味方であり、悪人は心の底から悪い奴である。
これらを結局は暴力で排除するというのは、アメリカの建国以来のプリンシパルだからそのことに迷いはない。

スパイダーマンもそういうガキ向けのコミックスであり、この映画はそのコミックスの映画化である。
だから私自身はこの映画にほとんど注目していなかったし、はっきりいえば気にもしていなかった。 たまたま子供とビデオ屋に立ち寄って「スパイダーマン見たい!」と子供にせがまれるまでは興味もなかった。


ところが子供と一緒に「スパイダーマン」「スパイダーマン2」を通して観てみて驚いたのは、なんと意外なことにこの映画かなり面白いのだ。全く期待しないで見たので余計その驚きは大きかった。


この映画の監督はサム・ライミだ。
この映画の監督がどういう作風の監督さんかは シンプルプランという映画の解説ですでにここにふれた。
この監督さんは「死霊のはらわた」という異色の映画でデビューし、しかしそのジャンルには全くこだわりを見せず、その後「ダークマン」や「未来は今」のような作品を制作して、単なる映画オタクではない資質を見せた。

この監督さんが才能のひらめきを見せたのはやはりそのあとの「シンプルプラン」だろう。
この一作を見ればわかるが、この監督は人間のリアルな心理の動きを描かせたら一級品の作品を作る。
「シンプルプラン」では普通の一般の市民が、突然巨額の札束を手にするとどれだけその平衡感覚を失ってしまうかということを実にリアルに描ききってみせた。
この映画は心理描写に無理が一切ない。
だから登場人物の誰にも感情移入できる。
全ての登場人物の心理が無理なく描かれているからだ。

その手練ぶりを遺憾なく発揮したのがこのシリーズ第一作の「スパイダーマン」だった。
まず蜘蛛という虫の生態をよく研究している。
原作は蜘蛛のように糸を飛ばしてどこにでも飛んでいけるというくらいの中途半端な描写だが、本作では蜘蛛のジャンプ力などよく調べて描写に反映している。
例えば、ハエトリグモは体長の数十倍もの距離をジャンプする。
もし人間のスケールに置き換えれば、10階建てのビルくらいは飛び越えてしまうだろう。
それくらいジャンプ力があるわけだから、当然体力も腕力も、そして動体視力も常人とはケタが違う。
それはいじめっ子に廊下で仕返しをするシーンで現れている。
蜘蛛がどんな傾斜でも普通に歩けるのは足の先に細かい鈎がびっしり生えているからだ。
それもちゃんと表現されていて「ウォールクローラー」(壁を這うもの)というニックネームが新聞の見出しにも使われていたり、細かいところに凝っている。

最も本シリーズで一番感心したのは、劇場に見に行ったスパイダーマン3だ。

この映画は2時間半ほど尺があって、劇場公開の子供向け映画にしてはちょっと上映時間が長過ぎるような感じだった。
しかしそれはサム・ライミのこだわりだったのだろう。

この映画では主人公も、その敵対する悪の二人組も、そして葛藤しながらスパイダーマンを憎悪するが最後には友情が勝ってスパイダーマンを助けにくる親友など、それぞれの事情、心の背景が非常に丁寧に描かれている。

この映画には結局心の底から悪い悪党は一人も出てこない。
みんなそれぞれに何か事情を持ちながら、不本意ながら悪の道を進むことでしか自分の問題を解決できないという事情で敵対する。
そして正義を体現しているはずの、スパイダーマンは慢心によって己を見失い、しかも伯父さんを死なせたのは自分の些細な復讐心が原因だったということを知り、善人も些細なことで簡単に悪の道に入りうるのだということがテーマになっている。

特にあの砂男の悪役が名演だ。
蜘蛛のような強靭な能力を持ち、正義の味方を標榜するスパイダーマンを最も苦しめたのは、娘の命を案じる優しい父親だった。
ラストシーンのその物悲しい表情には泣ける。

こういう単純な勧善懲悪ではない、アメコミのプリンシパル通りの「悪は暴力で排除する」というセオリーとはかなり違う陰影深い映画になっている。
この監督さんがまた好きになったな。














ヒトラー~最期の12日間



監督 オリヴァー・ヒルシュビーゲル
キャスト ブルーノ・ガンツ, アレクサンドラ・マリア・ララ, トーマス・クレッチマン

ベルリン陥落直前の12日間を通じて描きたかったのは
やっぱり大崩落の悲惨さじゃないだろうか

封切り前からポスターを見て「見に行きたい」と切望していた映画だった。
そのポスターはこのジャケット写真と同じ、ブルーノ・ガンツ扮するアドルフ・ヒトラーのプロフィール写真だった。
このガンツの眼は狂気を宿している。
この写真だけでこの映画の尋常でない雰囲気が伝わった。

この映画はドイツ人が敗戦やナチスの記憶を美化しようとしてるとか、ノスタルジアの映画だとか、そんな生易しい映画ではないのだなということはこの写真一枚でも充分伝わってくる。

この映画を語る時にやはりこのブルーノ・ガンツの迫真の演技を抜きにはできないだろう。
もしタイムマシンに乗って1945年の春のベルリンに戻ってそこでドキュメンタリーフィルムの撮影に成功したら、そのフッテージに映っているのはやはりこういう鬱病患者のような顔をしたヒトラーと、その取り巻きたちの絶望的な愛想笑いだっただろう。
ヒトラーはもはやアルザス・ロレーヌを併合した時のような自信たっぷりの「大ドイツ主義者」ではない。

しかしその言う事は凄まじい。
「私がおめおめとソ連軍をベルリンに入らせたと思っているのか、ベルリンにソ連軍をおびき寄せておいて、それを包囲する数万の首都防衛軍が袋のネズミにするのだ。今日に備えて空軍には最新鋭ジェット戦闘機を1000機も用意させていたのだ!」
と口走ってみたり、
(首都防衛軍は寸断され壊滅状態で、この時期には空軍はもはや存在しない)
「石油だ、石油が不足しているから我が軍には機動力がないのだ。もっと石油を確保する手段を検討しなくてはいかん」
と独り言のようにつぶやいてみたり、
(この時期のドイツはもはやチェス版の上でキングとポーンの二つだけが逃げ回っているような状態なのだ。石油があるとかないとか、もうそういう問題ではない)

ソ連軍の猛攻に耐えられず陣地を移動した将軍に対して次々と銃殺命令を出し、その銃殺命令に憤慨して、ヒトラーの地下シェルターに出頭してきた実戦派の将軍の侠気に感動して
「お前だけが勇敢で忠良な軍人だ。お前を首都防衛軍の総司令官に任命する」
とヒトラーは感激してみせる。
(しかし首都防衛軍などという組織はもはや存在しない。この将軍は「銃殺された方がマシだった」とぼやいてみせる)

しかしそのヒトラーのシェルターの外では、ナチスの親衛隊は早々と撤収してしまい、寸断された国防軍はもはや軍隊の体裁をなさずに散発的に抵抗をするだけで、実際の市街戦ではヒトラーユーゲントの小学生や中学生くらいの少年少女たちが肉弾戦をやっている。
こんな状態で、首都防衛戦を一週間以上も持ち堪えたということは、最後に残った守備兵はいかに凄まじい戦い方をしたかということの証なのだが、シェルターの中でヒトラーは
「国民がどうなろうと私の知ったことか。ドイツと一緒に滅びるべきだ」
とつぶやく。

人間は追いつめられると、こんな妄想に取り付かれてしまうのだという怖さがこの映画にはある。
しかし「ヒトラーはただの狂人である」という捉え方をしないのがこの映画の秀逸なところなのだ。

冒頭に私設秘書の採用面接のシーンで、タイプをミスした秘書候補に対してヒトラーは
「どうしたのかね? ミスしたのか。よろしいそれではもう一度はじめからやり直そう。」
とやさしく声をかける。
私もこういう資料を読んだことがあるが、独善的で攻撃的な狂信者というイメージで語られることが多いヒトラーだが、実際には身内に対しては非常にやさしく穏やかな人物だったと思われる。

特に少年少女にはやさしく、ヒトラーユーゲントの育成にはことさら熱心だった。
こういう人物像の描写が一部では
「ヒトラーを美化している」
という批判を受けているが、これも事実だったのではないかと思うのだ。
人間にはことごとく二面性がある。
ユダヤ人やスラブ人には狂人にしか思えないだろう人物が、別の立場の人からはやさしく穏やかで、懐の深い人物だったと見えたはずだ。
それにそうでなければ、短期間にあれだけ多くの人々が心服して従うような指導者になれるはずがない。
少なくともドーバー海峡の渡海作戦に失敗するまではほとんどのドイツ人にはヒトラーは敬愛されていたはずだ。
政治家というのは身近に接してみれば大変魅力的な人物が多い。
私も何人か会って話してみた結果、心底イヤな奴と思った人物はむしろ珍しい。
政治指導者になる人物というのは多かれ少なかれ皆「人たらし」という側面があるのだ。
そういう人物の魅力があるから人々はその人物に従うのだ。
ましてやヒトラーは、全ヨーロッパを戦場にした指導者だ。
「単なる狂人で妄想狂」
という評価ではこの事実が説明できない。

ヒトラーはやはり魅力的な人物だったはずだ。
それがこの映画の前半でかすかに描かれている。

この映画はその魅力的な指導者が上記のような妄想に捕われて滅びてゆく物語なのだ。
原題の「Der Untergang」は「没落」と訳されている。
定冠詞がついているので「あの大没落」というような意味合いだと思う。


この映画で、もうひとつ鬼気迫る演技だったのがゲッペルス婦人が子供を殺すシーン。
これはもうコメントのしようがない。
国が滅びるというのはこういうことなのだ。
「子供に罪はない」
なんてきれいごとは何の意味もない。
もし生き延びれば「ゲッペルスの子供」というカインの印は一生その子供たちにつきまとうに違いない。そのような思いをさせるくらいなら、いっそ自分たちとともにここで自決させる方が子供たちのためだという思い詰め方を
「大人たちのエゴ」
などと評するような想像力の無さには私は組みしない。

国が滅びるというのは、そういう平時の常識が全く通じない異常事態なのだ。
その異常事態に起こった事実を、平時の価値観で評価しても何の意味もない。
この映画はそういうことも考えさせる問題作だ。















遊星からの物体X



監督 ジョン・カーペンター
キャスト カート・ラッセル、ウィルフォード・ブリムリー、リチャード・ダイサート

B級の王様が作ったB級の中のB級映画
しかしその画面から伝わる緊張感には異様なものがある


このサイトの映画評は当分は一作家につき1本作品を取り上げて、それを評するという原則でやっていこうと思っている。
なぜなら私自身が「作家主義」という考え方に一番共感を感じるからだ。
面白い映画をどうやって見分けるか・・・は、人によっていろいろ思い思いのコツがあると思うが私自身はやはり映画監督の名前をチェックするのが一番確実だと思っている。
なぜなら「作品は監督のもの」でありスターや映画化権を具現化した「タイトル」で決まるわけではないと思うからだ。

以前こちらのBBSで話題になったことだが
「日本映画は将来リメークの素材になるような名作を作っていない」
と嘆く方がおられたが、私は
「日本映画は良い方向に向かっているし、何よりもリメークの原作が必ずしも名作である必要はない」
と答えた。これは議論があるところだろうが、いわゆるリメーク作品が原作を遥かにしのいでしまうというのは実は結構あることなのだ。

優れた原作が優れた作品につながるとは限らないし、今ひとつな原作が優れた作品を生み出すというのも結構あり得ることだ。
その典型的な例がこの「遊星からの物体X」という作品だ。


この原作はアメリカのSFマガジンで発表されたジョン・W・キャンベルJrの小説「影が行く」の映画化で、1951年に「The Thing(遊星よりの物体X)」というタイトルで映画化されている。
どこの世界にもかたくななオールドタイマーというのはいて、この51年の映画化こそ「名画」で、82年のジョンカーペンター版の「The Thing(遊星からの物体X)」は愚作と評する人もいる。

しかし原作小説の流れからいえばこの51年版の映画化こそ愚作で、残念ながら当時の映像技術ではこの
「意識を持った細胞が人間を乗っ取り、閉ざされた極地の基地の中でどの隊員が人間でどの隊員が『物体(The Thing)』なのかわからない」
という恐怖を正確に映像化することができないために、簡単に当時流行していたフランケンシュタインのようなモンスターを作り上げて、これが
「いつ襲ってくるかわからない」
というスリルだけに依存した作品にしてしまった。

このような愚作もリメークするとどう変わるかはこのオリジナル小説と、51年版の映画とカーペンター版の映画を見比べれば解る。
カーペンター版は51年版よりもオリジナル小説に忠実に映画化しようとする意図が伺えるのだが、51年版の映画とは無関係に映画化されたわけではない。
というよりも、カーペンター版をよく見ると51年版は「ノルウエー隊の記録フィルム」の上に忠実に再現されている。


短い夏が終わり長く憂鬱な冬に突入しかけている米国マクマード南極観測基地に、突然犬を追いかけて発砲しながら基地に迫ってくるノルウエー隊の隊員が現れる。
彼らの発砲する流れ弾が隊員に命中したために、仕方なくこのノルウエー隊員を射殺した米国越冬隊員たちは
「頭がおかしくなったのか?」
「まだ越冬は始まったばかりだ、頭がおかしくなるのはこれからじゃないのか?」
などと言い合いながら、その原因を探るためにノルウエー隊の基地に向かう。
しかしノルウエー隊は既に全滅した後で、しかもお互いに殺し合ったり自殺して全滅した様子が残る。

そこでノルウエー隊の膨大な「観察ノート」と「記録ビデオ」、それに何かをくりぬいたような氷の固まりと「生き物とも何ともつかない焼死体のようなもの」を発見する。
全く状況が解らないままこれらの「遺留品」を調べるうちに、驚くべきものを発見する。

ノルウエー隊のビデオには隊員が毎日、基地から数キロ離れたところに日参し何かを掘り出している様子が映し出される。
テルミット爆弾で一気に姿を見せた「円盤」とその近くの「氷づけになった何か」を氷ごとくりぬいて基地に運び込んで、その中身を取り出したらしい。

惨劇はその後起きた。

このノルウエー隊のビデオに残っていた観察記録のストーリィがまさしく51年版の「遊星よりの物体X」そのものの内容だった。
要するにこのカーペンター版はこの51年版のエンディングをちょっと変えて、その後のストーリィというふうに作ったわけだ。
巧みな脚本だと思う。


やがてこの米国越冬隊の隊員たちにも惨禍が降りかかってくるわけだが、その出だしはノルウエー隊の生き残りが追っていた「犬」から始まる。
この犬の名演技がすばらしい。

この映画は製作予算の大部分を「クリーチャー」の製作とその撮影技法の開発のために使い果たし、そういう部分だけが語られることが多いのだがジョン・カーペンターという監督は、SFX以外の視覚効果にも俳優の演技についても脚本についても決して手を抜かない人だ。
それがこの「犬の演技」に現れている。

こういう「クリーチャー」の造形とSFXでストーリィを展開するSF映画というのは、その後は「エイリアン」や「プレデター」などハリウッド映画の定番になってしまって段々陳腐化していくのだが、この時代には珍しい趣向の映画だった。
まさにこのカーペンターの映画がヒットしてひとつの定型が確立されたというのが実際だと思う。

ただこの時代には「コンピュータグラフィックス」というようなものはまだ存在しなかった。
それでも目新しいCGをこの映画では取り入れているのだが、それは隊員の一人「ドクター」が犬の細胞を調べて「物体」の細胞が他の生き物を侵略していく様子をシミュレーションしているパソコン画面だけしかない。
これがこの時代の「コンピュータグラフィックス」の限界だった。

だからクリーチャーを画面上で動かすためにこの時代のエフェクトクリエーターたちは涙ぐましい努力をしている。
例えば犬が変形していく冒頭のシーンでは、床をくりぬいて下からワイヤーコントロールや、血しぶきのようなものが飛び散るシリンダーや、挙句の果てに中に手を入れて動かす着ぐるみのようなものまで総動員して、この異形の生命体の異様な動きを作り出している。
最後に天井に吊るされるクリーチャーはなんと「マリオネット」である。

ラストに出てくる「キング」は、コマ撮りで動かす「クレイアニメーション」を実写の人物と合成した。
こうして見ると意外に古典的な方法で撮影されているのが解る。
カーペンター自身も新進気鋭の作家だし、スタッフもこの作品以降名を成した人達が多い。
この映画はほとんど大学の映画科の卒業作品のような雰囲気で撮影されたに違いない。


ところがこの作品が単なる「スチューデントフィルム」の延長線のような作品ではなく、異様な雰囲気を持ったスマッシュヒットになったのはやはりこの脚本と演出が優れていたからだと思う。

この南極越冬隊員たちには最初からどこか物憂いような退廃的な気分が見て取れる。
主人公のマクレディ(カート・ラッセル)は「勝ち誇る」チェスゲームにいきなりスコッチのロックをゴチソウして火花を吹かせている。
このシーンは実は「2001年宇宙の旅」の「HAL9000型」コンピュータとチェスゲームをするディスカバリー号の乗組員のシーンと対比して挿入されているシーンなのだが、おとなしく負けを認めたNASAの宇宙飛行士と違って、ラッセルはスコッチをコンピュータにぶっかけて「ざまあみろ」と悪態をつく。

このマクレディ役を演じたカート・ラッセルは実はこの12年前にウォルトディズニー映画の「テニス靴をはいたコンピュータ」というB級映画で俳優デビューした。
ハリウッドの有名プロデューサーの息子で、親の七光りで俳優になったというもっぱらの噂の少年だった。
当時の彼は童顔で「優等生」を演じていた。
12年後にこんなヒゲ面で、男臭い越冬隊員の役で出てくるとは誰も想像しなかったに違いない。


このカート・ラッセルもなかなかの名演で、この映画全体を通奏低音のように流れる「相互不信」という強烈な不安感を見事に演じ切った。
この
「誰が『物体』なのかは誰にも分からない」
という恐怖は、えせフランケンシュタインが襲ってくる恐怖なんかとは比べ物にならないくらい深く強烈だ。
人間にとって結局一番恐ろしいのは「人間」なのだ。
実際そうした「相互不信」が原因で「物体」に取り付かれていない人間が、やはり取り付かれていない人間を誤認して殺してしまうというシーンがいくつかある。
こういう状況になってしまったら怖いのは怪物ではなく、同じ姿をした「人間」なのだ。

カーペンター監督はこうした越冬隊員たちの絶望感と隔絶感を表現するために、南極の壮大な雪景色を何度もリフレインしてカットバックさせている。
画面は時々白い色に溺れそうになるくらい雪原は圧倒的な広さと重さを持って迫ってくる。
そこにエンニオ・モリコーネの音楽がますます重苦しい雰囲気で「不安の通奏低音」とハーモニーを奏でる。


最後は「物体」の圧倒的な有利さに絶望した隊員たちが、もう自分たちの命を諦めてすべてを焼き尽くすという反撃に撃って出る。
ラストで生き残ったチャイルズとマクレディ(ラッセル)の会話にその深い絶望が現れている。
「言っとくがオレは『物体』じゃないぞ」
「もういい。聞いても『そうか』と答えるだけだ」
「これから、どうする?」
「見るんだ。これから何が起こるか。それだけだ」














ラスト・サムライ



監督 エドワード・ズウィック
キャスト トム・クルーズ, 渡辺謙, 真田広之, 小雪, ティモシー・スポール

東洋の神秘の国をモチーフにした美しいフェアリーテール、
あくまで日本とは無関係

その昔極東の大陸の東端に「蓬莱」という島国があった。
この物語はその島国で起こったと語り伝えられる美しい妖精伝説である。
実在する「日本」という国の歴史にちょっと似ていなくもないが、あくまで似ていなくもないという程度で全く違う国の物語である。

アメリカの第7騎兵隊の生き残りというネイサン・オールグレン(トム・クルーズ)は、かつての直属上官の誘いで、この「蓬莱」の軍事顧問になる。
やがて「吉野」での戦闘で右腕と頼む部下を失い、未熟な政府軍兵士は「サムライ」と呼ばれる戦士達の抜刀突撃にひるんで算を乱して逃げ惑い、ネイサン自身は奮戦かなわず「サムライ」達の俘虜となってしまう。

「吉野の国」の山中の「サムライ」たちの村に囚われたネイサンは村中を自由に歩き回ることを許され、それどころかこの「サムライ」たちの頭目の「勝元(渡辺謙)」とも「会話を楽しむ」仲となる。
そうして「サムライ」の一族の物静かだが勤勉で禁欲的な生き方に触れるうちに、それまで得ようとして得られなかった「心の平安」を感じる。

しかし時代は西洋化、文明開化の波に押し流され「廃刀令」の発布により「サムライ」はもはやこの国には存在できない身分となり、参議官だった「勝元」は一命を賭して「お上」に
「国のために命を投げうって戦った者達をお顧みあれ」
と訴える。
だがその願いは聞き入れられることなく政府軍との戦争に立ち至り、「勝元」軍は全滅。
その死をつぶさに目撃し、ともに勇戦し、最後に命をかけた思いを託されたネイサンは、意を決して「天皇」に拝謁、「勝元」のメッセージを伝える・・・

書き出してみるとこんな話なのだが、この話何かに似ていないだろうか?

ダンス・ウィズ・ウルブズ」にそっくり。

ダンス・ウィズ・ウルブズ」はスー族の仲間になる騎兵隊中尉の話だが、この「ラストサムライ」は「勝元」と呼ばれる「日本」の郷士一族の仲間となる第7騎兵隊生き残りの大尉の話。

こうして比べてみるとそっくり。
ダンス・ウィズ・ウルブズ」のケビンコスナーも「ラストサムライ」のトムクルーズも南北戦争の英雄だがその後軍務に嫌気さし、出会った異人種にカルチャーショックを受けながらもその心の静かさにひかれて、振り返ってかつての味方であった「政府軍」の醜悪な姿に憤りを感じ結局彼らに殉じる戦いに身を投じていく・・・

このようなことが実際にあったのかなかったのか知らないが、少なくとも日本の歴史に於いてはこういう話のモデルになっていそうな類似の事件すら見つけることができない。
だから、これは一種のフェアリーテールなのだと思う。

そうはいっても、実際の歴史と見比べてみるといろいろ符合する部分もある。
カスター「将軍」の第7騎兵隊全滅が1876年の6月。
この物語の始まりの直前ということになる。

ただしカスター「将軍」の戦死当時の本当の階級は中佐。映画では「大佐」と言っているが大佐だったことは正規軍では無い。さらに「将軍」という俗称は2階級特進のためそういうのかと思っていたら、そうではなく義勇軍「将軍」だったためのニックネームだったとのこと。この人物は「ワシタ河の虐殺事件」の指導者でありイワクツキの人物だったらしい。

この映画の描き方を見るとネイサン(トム・クルーズ)は、このシャイアン族の女子供を虐殺した「ワシタ河の虐殺事件」の当事者らしく、そのフラッシュバックに苦しんでおり(PTSD?)、「勝元」との「会話」でもかつての指揮官だったカスター「将軍」を激しく嫌悪しているのがわかる。

しかし「勝元」は「2000の敵に200人で斬り込んで死んだ英雄ではないか」とカスターを称賛する。

その「勝元」なのだが、このモデルが分からない。
明治九年に廃刀令が発布され「武士」という階級はこの年に正式に非合法になった。
そこを境に日本全国で「荻の乱」「秋月の乱」「西南戦争」などの内戦が次々に起こる。
しかしこの「勝元」は前原一誠や西郷隆盛など、どの内乱の指導者にも似ていない。
この勝元の村は奈良県の十津川を連想させるような、切り立った山のなかにある。

なんとなく十津川郷士がモデルなのかもしれないとも思うが、十津川郷士がこのような組織的な反政府戦争を起こした記録を知らない。
横井小楠の暗殺事件くらいか。
しかも「勝元」はこの当時にあって英語を流暢に使いこなせる「国際派」だ。
こういう歴史上の人物は思い当たらない。

多分これらの事件を全部ひとつのイメージにまとめて、「勝元」のイメージは上杉謙信か楠木正成あたりの歴史上の英雄をだぶらせて作り上げたフィクションなのだろう。
「フェアリーテール」と書いたのはそういう理由からだ。

この映画のおかしいところはいくつか挙げられる。
細かいところからいえば、村の子供達がいつも腰に木刀を差しているのは変。
武士であるなら前髪を落とさない子供でも小脇差(小刀)は常に腰に差している。
木刀を差しているのは、彼らが本当の武士階級ではなく武装した農民だからということか?
ならばますます十津川郷士とイメージがだぶってくるが、その割には最後の野戦のシーンの甲冑装束、旗指物が立派だ。
なんとなく日本のイメージを美化している。

ラストシーンのトムクルーズが天皇の前に進み出てかつて天皇自身が勝元にあたえた恩寵刀を見せるシーンで、菊の御紋の金襴緞子から出てきたのが平拵えの大刀というのが、
「大事なシーンなのにずっこけるなぁ」
という感じ。
天皇が勲一等の勤王の豪族に与える恩寵刀はあくまで「太刀拵え」でなくてはいけない。
なぜなら禁裏での正装はあくまで太刀拵え(刀を紐で腰に釣る拵え。帯に差す平拵えは正装ではない)だからだ。
ああいう拵えの刀を天皇が与えるなんてあり得ない。
あったとしたらなめた天皇だ。
そのなめた刀を仰々しく「大村」に与える天皇役も滑稽。

第一、アメリカの騎兵隊の生き残りの建白で米国との不平等通商条約を天皇が一存で破棄したなどという歴史は、日本には存在しない。
それは「蓬莱」かどこかの架空の国の歴史。

実際の日本はこの「修好」という美名の不平等条約を解消するために、明治、大正と必死の歴史をくぐり抜け、その間に日清、日露戦争を薄氷を踏む思いで戦い抜き、ついには引くに引けなくなって太平洋戦争にまで突入して国破るという悲痛な歴史を体験している。
この時に天皇の一声で
「こんな条約は止めるからね」
なんて言えてれば、全然違う国になっていた筈だが現実はそんな気楽なものじゃない。
もしもそれをその当時言ってしまっていたら、
「日本とタイはアジアでただ二つ植民地になっていない国だ」
なんて自慢は今頃できなかった筈だ。
歴史に「もしも」は意味がないけど。


ただ批評でよく言われる、
「政府軍兵士達が死んだ勝元に『土下座』するのはあまりにも荒唐無稽」
というのは、案外的外れかもしれない。

「いくら勇敢な敵に尊敬の念を感じても土下座は変だよ」
ということなんだろうけど、それは現代人の感覚。
この当時はまだ明治9年で、徳川時代の記憶はわずか9年前だ。
政府軍兵士といったって、その大部分は農民、町民を徴兵でにわかに兵隊に仕立て上げた鎮台兵。
敵は最近まで「殿様」とあがめていた種族の人物だ。
その戦いぶりに畏怖を感じたら、それを表現する方法は「土下座」しか知らなかったんじゃないだろうか。
この時代の鎮台兵が様になる敬礼法を知っていたとは到底思えない。

実際、西南の役では近代式の後装連発銃を装備した鎮台兵が、抜刀を抜き連ねた薩摩士族の歩兵の突撃におびえ銃を捨て算を乱して逃げたという話は、様々な記録に出ている。
あまりにも鎮台兵が弱いので
「チンダイ」
という言葉は当時の子供には「蔑称」と映ったそうだ。
この徴兵部隊のあまりの弱さに手を焼いた明治政府が、警視庁総監の川路利良に命じて警視庁勤務の薩摩士族を中心に「警視庁抜刀隊」を組織させ、これが政府軍の先鋒になってからやっとまともに戦えるようになったといういきさつがある。
このいきさつは司馬遼太郎「翔ぶが如く」に詳しい。

この映画はもともと歴史に「もしも」を持ち込んだ話だから、チンダイが「尊敬の念」を表現したければ「土下座」しかない・・・というのは意外にリアルなのかもしれない。


興味深いのはネイサンと「勝元」の「会話」だろう。
「ワシタ河」の悪夢にうなされるネイサンにそのことを「勝元」が尋ねると
「戦場に生きるものの常だ」
と答えるが、「勝元」は
「心にやましいことがあるからうなされるのだろう?」
と問いかける。
政府軍の「サムライ」が自決するのを介錯する「勝元」を見たネイサンはこれを「虐殺」だと思い込むが
「彼に頼まれて介錯したのだ。これは武士にとって名誉なことなのだ。」
と説く。そのベースになっているのは「惻隠の情」を尊ぶ武士道。
日米の「戦士」の死生観の違いが表現される。

共同プロデュースでクレジットされているトムクルーズ自身はこの映画で
「日本人の立ち居振る舞いの美しさを描きたかった。この国はまさに驚くべき国だ」
と言っている。
この映画はビジットジャパンのプロモーションビデオなのだと思って観れば、スゴくよくできている。
日本政府観光局の「ビジットジャパン」ビデオなんかよりも遥かによくできている。
そこはやはりさすがハリウッドの底力なんでしょうな。
だって私もこの映画観て、この架空の国「蓬莱」に行ってみたくなったもの。

ところでこの映画のキャストで私にとって一番強烈な印象を残したのは福本清三だ。
この方は「5万回斬られた男」という通称があるそうだが、実際日本映画、テレビ時代劇の斬られ役最古参でたぶんご本人も何回死んだか覚えていないんじゃないだろうか。
この映画もその5万回のうちのひとつになったが、斬られる前にこんなに長く画面に顔を出したこともなかったのじゃないか。
ネイサンに
「名乗らないなら勝手にボブと呼ばせてもらう」
と言わせ、真田広之にこてんぱんに打ちのめされるのも表情も変えずに見ていたのを
「昨日は守ってくれてありがとう。お前さんはオレのボディーガードじゃないのか?
何のためにオレについて回っているんだ」
と皮肉を言わせる寡黙な男。

しかしラストシーン近くでネイサンを守るために壮絶な戦死をする。
この実直な役者さんにふさわしいスゴくいい役だった。














2001年宇宙の旅



監督 スタンリー・キューブリック
キャスト キア・デュリア, ゲイリー・ロックウッド, ウィリアム・シルヴェスター, ダニエル・リクター

どこからきてどこへ行こうとしているのか、主は問われた
〜SF映画の枠をはみ出してしまった名作

この映画は封切り以来センセーショナルな話題を提供し続け、「SF映画の金字塔」という評価を恣(ほしいまま)にしながらも、単純なSFアクション映画を期待して見にきた多くの観客を失望させてきた。

この映画の評価で一番私が鮮烈に憶えているのは、日本のSF小説の重鎮である小松左京や福島正美らが座談会で
「取るにたらない愚作」
と斬って捨てていたものだ。
またこの映画の原案と共同脚本を担当したSF作家のアーサー・C・クラークは、続編の「2010年」の映画化ではキューブリック抜きを条件にし、映画の出来を聞かれて「良い出来だ、キューブリックがいないから」と答えたという。
この映画は無理矢理ジャンル分けするとSF映画ということになるのだが、なぜかSF作家の皆さんの評価が低い。
(しかし小松左京が「2001年宇宙の旅」のアンチテーゼとして上梓した「さよならジュピター」こそ愚作中の愚作であり、その同名の映画化作品は「クズ」以外の何者でもない。小松左京は私の好きな作家であり、好きな作品もあるのだがこの点に関しては彼の目は曇っていたとしか言いようがない)

これほど多くの観客を失望させながらも、「歴史的名作」という評価も消えないキューブリックという人の魅力は何だろうか。
「シャイニング」の映画化作品に失望したスティーブン・キングがやはり自分でプロデュースして撮り直した同名作品の「できに満足した」というエピソードがある。
しかし映画として観た時に「シャイニング」の再映画化版はキューブリック版と見比べると随分小振りなスケールの小さい映画になってしまった。

キューブリックはやはり表現が活字的ではなく映像的だということではないかと思う。
クラークが満足したという「2010年」はナレーションを多用してストーリーを進行する。
しかしキューブリックが主導権を持っていた「2001年」には説明的なナレーションは一切ついていない。
こちらの方が説明するべきことがらは遥かに多いのにだ。
ナレーションを使って言葉で理解させるのではなく、視覚的効果によって感覚で理解するのが映像的表現だ。
2001年の映画の中で唯一説明的な言葉が連ねられているのが「フロイド教授」が月面に向かうシーンのロシア人学者との会話と、クラビウス基地での会議シーンとムーンバスでの会話のシーンだ。
言葉による表現を一切排するといってもさすがにこれだけは説明しないと誰もストーリーに入ってこられなくなりそうだから、キューブリックの苦渋の妥協ということなのかもしれない。

「宇宙中継ステーション」でロシア人学者と久しぶりの再会の挨拶をしたあと「スミロフ教授」の質問は
「立ち入ったことを訊くが、クラビウス基地で何か重大な問題が起こっているのではないか?
うわさでは未知の伝染病が蔓延しているという話もある。あなたがそこへ向かうのはその問題のためではないのか?」
「申し訳ありませんがその問題について話すことはできません」
このくだりでこの打ち解けた会話が急に凍り付いてしまう。

これが「月で何か重大な事件が起きている」という最初の説明になっている。

そしてクラビウス基地での会議シーンではなんとこの「未知の伝染病」説が意図的に流された偽情報であることが判明する。
未知の伝染病よりももっと重大な事件がここでは進行しているのだ。

その伝染病よりも重大な事件とはムーンバスの会話で明らかになる。
「TMA-1」
と名付けられたその物体はチコクレーターの地下に「意図的に埋められて」いたという。しかも年代測定の結果それは400万年前のことらしい。

チコクレーターと聞くと宇宙開発に詳しい人ならそれだけでピンときてしまうような場所だ。
月面はクレーターだらけだが、この原因となった隕石は月の歴史を通じてまんべんなく降り注いだわけではなく、そのほとんどは30億〜10億年前に衝突が完了して、その後は隕石衝突はほとんど起きていない。
数少ない例外がチコとコペルニクスで、特にチコはアマチュア天体観測でも月に望遠鏡を向けると最初に目を引くクレーターだ。
この目立つチコの地下に非常に強い磁力を持った、観測可能な範囲で誤差無く1:4:9の3辺比をもつ直方体を400万年前に埋めた・・・
これは「隠すため」に埋めたのではない、「見つけてくれ」という意図で埋めたのだ。

このことが意図するのは「未知の知性との最初の遭遇の証拠」ということ以外にない。
(1:4:9は素数の1、2、3の二乗であり、磁気を発していたということはそういう観測能力があるものがここに訪れるかをこの設置者が知りたがっていたということだ。こういう数学的メッセージが、未知の知性体の最初の遭遇の時にメッセージに使われるだろうという話は、カール・セーガン教授の「コンタクト」という小説でも検証されていた)






チコクレーターは月の南半球にあり常に地球の方を向いている
またその光条は月の半球全体に届くほど長く非常に目立つ
クレーターができた年代も1億年前と月のクレーターの中では非常に新しい
この目立った特徴があるからアポロの着陸地点のひとつにも選ばれた
ここに強い磁力線を持った物体を埋めるということは設置者の意図は
「隠したかった」のではなく「見つけさせたかった」ということだ



この映画の原作になったのは、アーサー C.クラークの短編の「前哨」という小説だ。
この小説は月面の洞窟で人類が発見した機械が、人が触れたとたんに遥か遠くの宇宙に強力な信号を発信するという物語だった。
短編はこの信号は何を意味するのかはわからないが人類は自分たちの存在を誰かに知られてしまった・・・というところで終わる。
映画は「そのあとどうなったか」というストーリィだ。

同じくアーサー・クラークの小説の「幼年期の終わり」という小説がその状況のベースになる。
人類は一人で進化したのではなく、その進化は誰かに見守られて意図的に操作されていた・・・という話だ。

その状況説明が冒頭の猿人たちのシーンだ。

今から500万年前、東アフリカに大地溝体(グレートリフトバレー)が生まれ、アフリカはその背骨のように高い山脈で西と東に分断された。
大地溝体の西側は季節風が運んでくる湿気で深いジャングルを形成し、そこに住む霊長目の仲間は森で豊富な食糧に恵まれてチンパンジー、ゴリラ、ボノボのような種族に進化していった。
しかし大地溝体の東に取り残されてしまった種族は、乾燥によってもたらされた森の後退、大地のサバンナ化に適応して生きなければならなかった。

大地溝体の東側では森は枯れ、一面の草原と砂漠となりそこには数少ない草食動物とそれを狙う肉食獣が棲むだけの厳しい生態系になってしまった。
ここに取り残された霊長目の仲間は草原に適応するために直立歩行を身につけるが、それでもこの「エデンの園」の東に追われたアダムとイブの末裔は、100万年かけて飢餓の中で絶滅への道をゆっくり歩んでいた。

ある日、そこに正体のわからない「モノリス」が現れる。
モノリスは例の1:4:9の正確な三辺比を持ってそそり立ち、このアダムとイブの末裔達に何かの「作用」をする。
やがて、この哀れな霊長目は「突然」、手に武器を持つことを思い立ち、これが飢餓から彼らを救い、敵対する猿人のグループを追い払ったり天敵に打ち勝つ手段をもたらす。

この劇的変化が今日の人類の繁栄に繋がる。

この映画のバックグラウンドは、人類の発生には「ミッシングリンク」が存在するということが永らく論争の種になってきたということだ。
ミッシングリンクとは猿人から旧人に進化し旧人から新人に進化し、しかもその全ての種族が絶滅したにもかかわらず、ホモサピエンスという種族だけが奇跡的に生き残ったという謎のことだ。

アフリカのサバンナにはライオンをはじめネコ科動物が6種もいる。
さらに霊長目は、分類法にもよるが180~200種いる。その中でヒト科は、ホモ・サピエンスたった1種だ。この孤独な現状は、明らかに異常だ。

るいネット、阪本剛氏の投稿より)

人の進化の道筋は同じ環境に住む他の動物の進化と比べるときわめて異様だ。
その謎は「誰かにコントロールされていたからだ」と考えないとつじつまが合わないかもしれない。
そうだとすると誰がどんな意図で、そういうことをするのか、その事実は人類の未来にどういう影響を及ぼすのか・・・
その答えのひとつの可能性を思索したのがこの映画ということなのかもしれない。


その「コントロールした者たち」はきっとその結果を知りたがるに違いない。
その結果が出るには数百万年の歳月を要する。
ずっと監視しているわけにはいかない。
そこで彼らは月面に監視装置を置いた。
それはチコクレーターの地下に埋められ、彼らが作用をもたらした猿達がこの一番近い天体まで到達する文明を持ち、チコクレーターの磁気異常(Tycho Magnetical Anomaly、TMA-1)に気づくほどの科学力を持った時、モノリスは初めてその機能を果たすようにセットされた。

はたしてクラビウス基地の調査隊員とフロイド教授が写真撮影を始めた時に、モノリスは木星に向けて強力な電波を発信した。
その意味はわからないが、18ヶ月後に木星探査飛行が実施される。
ディスカバリー号は科学調査員3名を人工冬眠状態で載せ、2名の飛行士と最新鋭のヒューリスティカル・アルゴリズムコンピュータ(自律的学習能力を実現する演算手法を備えた電子計算機)HAL9000型コンピュータによって制御されて木星へと向かった。


その飛行の途上の船内の空気はなんとなく退廃的な感じがするのが私にはスゴくリアルに感じた。
勿論ボーマン、プール二人の飛行士は、実際のNASAの宇宙飛行士に取材して、本物っぽい前向きで精力的なイメージの演技をしている。
にもかかわらず船内が退廃的に見えるのは、この船が周囲数百万キロには人の姿どころか人跡すらない遥かに離れた辺境を飛行しているという隔絶された孤独感からきている。

以前モンゴルに行った時に月も出ない夜に、満点の星と鼻をつままれてもわからないような闇の中で
「この周囲60キロ以内には人の住む街も村も一切存在しない。光が全くないから星があんなに沢山見えるのだ」
と説明され、大変心細くなったことがある。
もしここで迷子になったら、誰にも発見されないで乾涸びてしまうかもしれない。
数千キロ四方は周囲は砂漠と草原だけだ。

60キロ四方に人はいないと言われただけでも、そんなに心細い思いをしたのだからましてや周囲数百万キロ四方に人跡のある場所はどこにもない、それどころか足がかりになる星すらないと思うと、その心細さは砂漠の真ん中に取り残されるのとは比較にならないくらいに違いない。
勿論、最新の科学で船内の環境は守られている。
飛行士達は船内環境の維持については充分な教育も訓練も受けている。
だから、論理的思考の半面では「心細く」などないはずだ。しかし感覚的にはこれまでの全ての人類の誰もが経験したことがないような辺境での孤立感を感じている。
このギャップがなんとなく気だるい感じになって現れるのだろう。
チェスをするボーマン船長、日焼けライトを浴びながら家族からのビデオメッセージを見るプール飛行士、船内をスケッチするボーマン船長、色付きマッシュポテトのような宇宙食を食べながら
「BBCホームサービス・モーニングニュース」
の「木星に向かう5人の飛行士達」という自分たちの番組を観る・・・
どれもスケジュールに沿った行動なのだろうが、なぜか飛行士達の表情に気だるさがある。

その孤立感は画面でも表現される。
船外活動をするためにポッドでディスカバリー号の外に出る飛行士、その瞬間カットは遥かにディスカバリー号が小さく見える遠景に切り替わり、小さな隕石がいくつか通り過ぎる。

そのBBCニュースでも興味深く取り上げられていた「6人目の搭乗員」である「ハル」は、これまでのコンピュータとは全く違う機能を持っている。
コンピュータは、少なくとも今日我々が使っているノイマン型コンピュータはあらかじめプログラマが組んだ手順にそって、問題を解決する、データを加工するなどの処理をあらかじめ決められたた通りに実行するだけだ。
あらかじめ何が必要か全て分かっていればこの単純強力なコンピュータは非常な威力を発揮する。

例えば今日の自動車工場、ここではほとんど無人であるにもかかわらずコンピュータによって数値制御されたロボットアームが車のシャーシ、ボディなどの溶接をかつては職人でないとできなかったような鮮やかな手つきでこなしてしまう。
こういう手順が決まった作業にはコンピュータは絶大な威力を発揮する。

しかし決まった手順しかこなせないコンピュータでは対応できない場面もある。
例えば宇宙飛行。
数学的な軌道に乗ってあらかじめ計算された位置に、決められた時間に到着する宇宙飛行は一見ノイマン型コンピュータにうってつけの作業のように見える。
しかしアポロ13号のようにそこで「酸素タンクの爆発」というトラブルが起きるとどうなるか?
コンピュータは全く何の役にも立たない。
それどころかアポロ13号のケースでは航路の大部分では、電力保持のためにコンピュータの電源は落とされていた。
こういう場合は結局人間が対処しないといけない。

人間とノイマン型コンピュータの違いは何か?
それは結局「自律的に問題解決の手順を見つける学習能力」を持つかに尽きる。
そこで「ハル」と呼ばれるHAL9000型コンピュータは、ヒューリスティカルなアルゴリズムを選択できるコンピュータとして、イリノイのプラントで製造され、宇宙船に搭載された・・・
という物語の設定になっている。

人間とコンピュータ、どちらが主人でどちらが補佐役か?
このテーマはSFだけでなく、社会学や労務管理など多くのジャンルで話題になるが、結局いわれるほどこれまでは「コンピュータが主人で人間は奴隷」という状況にはなっていない。
なぜならコンピュータは「主人役」が務まるほどの能力がなかったからだ。

しかし「自律的学習能力で問題解決法を自分で模索できる」コンピュータが本当に実現したらどうなるか?
まさに宇宙船の運行もコンピュータ任せで、人間はその補佐役、あるいはチェック役にならないか?
「HAL」はそういう問題も提起している。

しかしノイマン型コンピュータの長所は
「入力が同じなら常に同じ結果を算出する」
というように単純である点だった。
このノイマン型コンピュータの単純さに比べて、コンピュータが自律的学習能力を持つと同じ入力をしても、「いつ入力をしたか」によって違う答えが出てくる可能性が出てくる。
つまり人間と同じくらい賢くなると、人間と同じようなミスをする可能性が出てくるのではないかというテーマが出現する。

「ハル」はまさにミスをした。
AE-35ユニットの故障を予言したが、交換回収したAE-35ユニットは過負荷をかけても全く故障の予兆を示さない。
地上で並行運転している同型のHAL9000型コンピュータは、船内に搭載されているHALの故障の可能性を示唆した。

しかし「ハル」は「HAL9000シリーズは一切のエラーやデータの劣化を起こしたことがない」と主張し「エラーをするのは常に人間である」と取り合わない。
ポッドに隠れてボーマン船長とプール飛行士が
「もし万一、HALにやはり異常があるとなった場合、取るべき手段はHALと船のコントロール回線の切断以外にないのでは?」
という相談をする時にその会話の内容を、お得意の「自律的学習能力による問題解決手順の選択」により読唇術で読んでしまった。


船外活動でプール飛行士がポッドから出たあと、ポッドが勝手に動き始めてから十数分間、映画には全く音がついていない。
聞こえるのはポッド内部のセンサーの音とディスカバリー号内部の生命維持装置のアラート音だけだ。
これだけ長い時間無音が続くのもサイレント映画以降では史上初ではないか。
この十数分間は息が詰まるような緊迫感で迫ってくる。
キューブリックの面目躍如というシーンだ。

この辺境宇宙で起きた「殺人事件」について、ボーマン船長と「ハル」の間にかわされる会話でその動機が明らかにされる。
「ハル」は
「この任務はあまりにも重要なので、あなた達人間にジャマさせるわけにはいかない」
とその動機を明らかにした。
嫌悪でも憎悪でもない。
自己保存の本能ですらない。
「ハル」は任務達成の義務感のために「障害」である人間を排除しただけだ。
それが合理的であると判断したから、その「アルゴリズム(問題解決の手順)」を実行した。

しかしこの飛行プログラムのミッションは「最初の異星の知性体の証拠が示した痕跡を確認する」ということであり、「人間と異星の知性体の最初のコンタクト」が目的であったにもかかわらず、「人間」というファクターが脱落している。
コンピュータが、本当の意味で「主人」になって「人間が奴隷になった」瞬間だった。

バウンティ号の如く叛乱を起こした人間は結局この新しい「暴君」を切断して、コントロールを取り戻す。
そしてボーマン船長がたったひとりで、木星軌道上で「モノリス」を発見し、そこから「言葉にできない」体験をする。

かつて東アフリカの草原で絶滅寸前だった人類が想像だにしなかった新しい進化を遂げたのと同じように、ここでもこれまで想像もしなかった全く新しい進化を遂げるという物語だ。


この映画が興味深いのは、SF映画であるにもかかわらず実際のNASAの航空技術者やコンピュータ技術者とディスカッションして未来のウエアデザインを予想しているということだ。
HALをはじめスペースシャトルや月連絡船などのコックピットは、針が振れる円形メーターが一切排除されコンピュータによる画面表示で航行情報を全て表示するという考え方は、今日の FBW(フライバイワイヤ)のジェット旅客機のコックピットの様子を見事予言した。

HALもコマンドラインを使って操作する当時のコンピュータと違い、グラフィックユーザインターフェイスを備えたコンピュータだ。入力はマウスではなく音声であるという点が違うが、そういうコンピュータが主力になるという予言は1968年当時としては斬新だった。
(むしろ今日では当たり前すぎて驚きがないが、当時は異様な話だったに違いない)


この映画の際立った特徴は画面の隅々にまで「ピントが合っている」ということだ。
例えば冒頭の宇宙中継ステーションに到着する「パンアメリカン航空」のスペースシャトルが、ステーションの回転にあわせてドックに着陸するシーン、
月行きシャトルが月面を捉えてクラビウス基地へ降下するシーン、ディスカバリー号のEVA(船外活動)のシーンなど、模型とペイントグラフィックを多用した特撮シーンだけではない。

冒頭の「フロントプロジェクト」という言葉を有名にした東アフリカのサバンナのシーンとか、HALコンピュータの「ロジックセンター」の室内に入っていくボーマン船長のシーンとかが私は印象に残っている。
これはビデオではなく一度映画館のスクリーンで確認するべきだと思う。

いずれのシーンもこの深い被写界深度を得るために画面から観る印象よりも遥かに強い照明を使っていた筈だ。
深い被写界深度を実現して画面の隅々までピントを合わせるためには、絞りを絞らなくてはいけない。そのために強い照明を当てるとそれは俳優さんの演技に影響する。
船外活動のシーンは、「宇宙の遮るものがない太陽の強い直射」という設定で逃れられるかもしれないが、船内やエンディングのロココ調の部屋のシーンでは俳優さんはまぶしいという顔はできないからかなり苦しかったのではないかと思う。

ロココ調の部屋のシーンでは照明は床からの間接照明で当てられていて、人物に影がないのもこの非現実感を表現している。
こういう映画人ならではの斬新な撮影技術はなかなか解説したものがないが、実はこの映画の雰囲気を決定している大きな要素だと思う。

この映画を語る時に模型を使った特撮の技術とか、スリットスキャンとか、無重力の表現を実現したモーションコントロールのカメラワークとか、そういう技術ばかりが語られるが、同じような模型と特撮技術を使って「キューブリック抜き」で撮影された「2010年」では、この異様な雰囲気がほとんど失われて、「普通のSF映画」になってしまっているのを観ると、やはりこれは映像屋としてのキューブリックの感覚が生み出した作品なのだと感じる。

封切り公開のときの一般観客の評価は今ひとつで興行的には失敗だったこの映画だが、フォックス映画を傾かせた「クレオパトラ」とは違い、結局息が長いヒット映画となりMGMの代表作品になった。
また原作者のA.C.クラークをはじめSF作家達には総スカンを食らった「非SF的」な映画であったにもかかわらず「名画」の評価を恣にし、そのSF作家達が思い通りに作った「2010年」や「さよならジュピター」などとは比べるべくも無い力量差も感じる。
これらの映画と比べて観てみるといいと思う。
やはり映画は映像屋の感覚こそ全てであり、SF屋やスリラー屋の感覚とは全く違う表現形態なのだと感じる。

ちなみにほぼ同時期に出版された「2001年宇宙の旅」というアーサー・C・クラークの小説は、なかなか読み応えがある名作だと思う。
これは映画の原作でもないし、映画のノベライズでもないらしい。映画と同時進行で書き進められたクラークの考えによる小説ということで映画とは別物ということらしいが、小説として読めばこれもなかなかの名作だ。













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