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監督 クリント・イーストウッド
キャスト クリント・イーストウッド、モーガン・フリーマン、ジーン・ハックマン
失われた西部劇の挽歌を装いつつも全く新しいタイプのガンファイト劇
先日、型破りな女性教師の過去を描くドラマを観ていたら子供が
「どうして人を殺してはいけないんですか?」
と真顔で教師に聞き返すシーンがあってハッとした。
そうだ、今の子供の感覚はああいう感じなのだ。
人の命とか、生死とかいう問題にリアリティを感じられないから人を殺してはいけない理由が感覚的に理解できないのだ。
いつからこうなってしまったのだろうか。
多分間近に人が死ぬところをあまり見なくなったし、痛みを感じることもなくなってしまった。
今は病院でも葬儀社でも死んだ家族に子供を近づけないし、子供同士は外で取っ組み合いの喧嘩をするなんてこともなくなってしまった。
だから、死ぬということも実感できないし、自分が殴られるまで殴られたら痛いという感覚もわからないのだろう。
映画の変遷を観てその答えを感じることがある。
例えば昔のアメリカの西部劇では、女や子供を殺したり暴力を振るうなんていう描写はなかった。
そんなことをしたら当時は観客のブーイングで、上映を続けられない。
それどころか男同士のガンファイトでも背中から撃つのは御法度だった。
そういう卑怯な行いをした者は物語の最後までに必ずその報いを受けなくてはいけない。
そうでないと観客が納得しないからだ。
こういうジョン・フォード世代のフェアな西部劇がアメリカの西部劇の伝統だった。
それは過剰に美化された世界ではない。
なぜなら本当の西部開拓時代がそういう時代だったからだ。
1940年代のジョン・フォード等の全盛期にはまだ西部開拓時代の生き残りが撮影現場にもいた。
それはほんの50年前の世界だった。
この時代には、子供時代にトゥームストーンでワイアット・アープ等が撃ち合いをするのを実際に見たという老人がまだ生きていた。
このワイアット・アープ一家とクラントン一家の有名な銃撃戦は、こんにちのニュース原稿風に表現すると
「トゥームストーン市のO.K.貸し馬場裏の空き地で男たち9人が発砲。このうち3名が死亡、3名が重軽傷を負った」
という事件だ。
ところがこの事件は西部だけでなく全米を揺るがす大事件として報じられ、伝説になって何度も映画化されている。
このことから何がいえるかというと、
「西部開拓時代は拳銃を吊った男たちが闊歩する無法時代というイメージとはほど遠く、実際には穏やかな、秩序だった時代だ」
ということだ。
今だったらこのような事件は全米を揺るがすような大事件とはいえないだろう。
死んだのはたった3人だ。
もっと大勢の人が死んだ事件は、アメリカ通史の中でもたくさんあった。
しかしこれが全米を揺るがしたということは、逆にいうとそれほどこの時代は大きな事件が少なかったということがいえる。
実際には毎日人が殺されるような殺伐とした時代ではなく、意味なく人を撃ったりした人間には厳しい罰がくだされるという秩序の時代だった。
これは例えば江戸時代は時代劇とは違って、実際にはほとんど殺人事件が起きない時代だったというのと似ている。
江戸時代には数十万人の人々が腰に一本半人斬り包丁を差していた。
それだけでなく例外措置としてさらに数万人が一本人斬り包丁を差していた。
こんな物騒な時代なのに、実際にはドラマと違ってこの時代にはほとんど殺人事件が起きなかった。
治安の良さは今よりも上だ。
なぜそうなのかというと、秩序が厳しかったからだ。
武士は無礼打ちは斬り捨てご免と学校で教えられてそういう時代だったと思われているが、実際には無礼打ちで町人を斬り捨てるとよほどの理由がない限り閉門蟄居、悪い場合は改易家名断絶などという厳しい処罰が待っていた。
話がそれたが、西部劇の世界は殺伐とした世界ではなかったはずなのだがそれが決定的に変わった事件が起きた。
マカロニウエスタンのヒットだ。
アメリカではスパゲッティウエスタンと言っていたらしいが、要するにアメリカ製ではないイタリア製の西部劇だ。
イタリア人は本当の西部開拓時代を知らないから、この時代をカリカチュアとしてしかとらえられなかったようだ。
この世界では悪役は相手を背中から平気で撃つし、女も子供も殺す。
しかもこのマカロニの悪役は人を殺す時に苦悩なんかしたりしない。
平気で、顔色ひとつ変えずに人を殺す。
悪役がこういう凶暴な奴だから、そういう奴らが報いを受ける時に大きなカタルシスがあるわけだ。
この悪役どもをまた顔色ひとつ変えずに撃ち殺していくのがクリント・イーストウッドだった。
大部屋俳優だったクリント・イーストウッドはまさにセルジオ・レオーネのマカロニウエスタンでスターになっていった。
クリント・イーストウッドも正義のために苦悩しながら戦ったりしない。
女や子供に優しいわけでもないし、欲得でたまたま悪人どもを滅ぼすだけだ。
そういう無情なストーリィがクールだということでマカロニウエスタンはヒットした。
この殺伐とした西部劇がヒットして、正義のヒーローは顔色ひとつ変えずに悪人どもを撃ち殺していくのがアメリカンスタンダードになった。
そしてやがて西部劇そのものが衰退してしまった。
90年代に西部劇のリバイバルブームだと言われた時に、この二つの潮流と全く違う流れが起こった。
そのきっかけになった映画がこのクリント・イーストウッドの「許されざる者」だったと思う。
この映画では主人公のウイリアム・マニー(イーストウッド)はかつて勇名を馳せた列車強盗団の頭目だった。
「動くものは女でも子供でも殺す」
という評判で名高かった。
しかし実際のウイリアムは、改心して結婚し子供を設けたが妻を病気で失い、泥まみれになって豚を飼う平凡な農民になっていた。
生活が立ち行かなくなったために懸賞金がかかった殺しの話を聞いて、ためらいながらも銃を取るという主人公として描かれる。
かつての仲間(モーガン・フリーマン)を連れ出したが
「そいつを見つけ出したとして、本当に殺すのか? 血気盛んだった頃でも殺しは容易なことじゃなかったのに、本当に殺せるのか?」
と問いかけられイーストウッドは黙り込んでしまう。
イーストウッドは「女でも子供でも殺す」なんていう評判とは全く裏腹に、本当に人を撃った時にすくみ上がってしまう。
「もう撃たないからそいつに水を飲ませてやれ」
と相手の仲間に叫ぶシーンは印象的だ。
そうだ、本物の銃で生きた人間を撃つというのはものすごく怖いことなのだ。
撃たれる方も怖いが、撃つ方だって同じくらい怖いはずだ。
引き金を引いただけで撃たれた相手の何十年かの生涯が、ロウソクの火が吹き消されるように消えてしまうからだ。
この映画ではそういう斬った張ったの現場の人間の心が、リアルに描かれている。
マカロニでは全く描かれなかった人を殺す方の心理のことだ。
敵役のジーン・ハックマンも単純な悪党ではない。
本当に街の治安を維持したいという動機で保安官をやっている。
しかしそれをやりすぎて、徹底的に暴力的な解決をしてしまう。
「悪に対してはある場合は、強烈な暴力が必要なのだ」
という信念でやっている姿は最晩年のスティーブ・マックイーンの映画「トム・ホーン」を彷彿させる。
ガンマンの腰巾着のような新聞記者にガンファイトの神髄を語るシーンがある。
「物書きは目にも止まらぬ早撃ちとか書きたがる。しかし実際には速く抜くなんて何の意味もない。自分はこのくらいの速さでしか抜けない。しかしガンファイトの時には落ち着いて相手をしっかり狙える奴が生き残れるのだ。慌てて早撃ちをしようとする奴は死ぬ。」
そしてハックマンは「イギリス人ボブ」の手が届くところに銃を置いて、それを実証する。
高熱を出してすっかり闘争心を失ったイーストウッドにもハックマンの「正義」の暴力は容赦なく振るわれる。
ここから物語は急展開する。
イーストウッドに腰巾着のようにまつわりついていた若い「スコフィールド・キッド」はウイリアム・マニーに憧れて
「何人も人を殺したとがある。そのうち一人はナイフで殺した。」
とうそぶいている。
しかし本当に人を一人撃ち殺してしまったあとは、砂をかむような顔をしてバーボンを飲みながら
「もう帰る。金は要らない。」
と言い始める。
人を殺すというのはその殺した人間の人生観さえ変えてしまうほどの重大事件のはずなのだ。
顔色ひとつ変えずに人を殺すなんてことは、普通の人間には到底不可能なはずだ。
この映画は斬った張ったの命をやり取りするようなストーリィを描いているが、人を実銃で撃つ人間の心をリアルに描いていると思う。
そして一回でも人を殺したことがある「許されざる者」たちの苦悩は、マカロニウエスタン以降の映画では全く描かれなくなった心理であるという意味では、これは新しい西部劇の潮流になった。
その経験を最も積んでいるイーストウッド扮するマニーは、殺人を再び犯すことの恐怖に捕われるが、結局は古くからの友人を殺されさらし者にされた怒りから最後は若い頃のように酒の力を借りて修羅場へ飛び込んでいく。
「お前に正義はない、地獄で待っているぞ。」
と捨て台詞を吐く重傷を負ったハックマン演じる保安官に
「ああ」
と短く一言だけ答えてとどめの一発を撃ち込むイーストウッドには自分も「許されざる者」なのだということが身にしみている。
これが物語の中心軸なのだが、この映画は殺すの殺されるのというテーマを扱いながら、なぜか殺伐としたマカロニウエスタンを観たあとのようなささくれ立った後味は残らない。
「若い頃のオレはクズだった。彼女が俺をまともな人間に変えてくれたのだ。」
と死んだ妻のことを述懐するイーストウッドの優しい表情の演技は、彼の次回作の
「マジソン郡の橋」
に通じるものがあった。
クリント・イーストウッドってあんな優しい表情の演技ができる役者だったんだねということを発見するだけでもこの映画は価値がある。
このシーンでこの映画は若い頃のヒット作「ダーティ・ハリー」よりも遥かに深みを持った。
ラストシーンにイーストウッド監督の優しさが滲み出ている。
この映画は往年のジョン・フォード時代の西部劇とも全く違う、リアルな西部劇なのだがマカロニウエスタンのように殺伐ともしていない全く新しいタイプの西部劇となって、多くの模倣者を生んだ映画になった。
そういう意味では一時代を画した映画だが、残念ながら未だにこれを超えるような新しいタイプのウエスタンは出てきていないように思う。
まさに名作だ。