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KT



監督 阪本順治
キャスト 佐藤浩市 キム・ガプス 筒井道隆 原田芳雄


最大の当事者であったキム・テジュン大統領を唸らせた政治活劇


この映画も当時の背景を知ってみるとますます興味深く観ることができるはずだ。
この事件が起きた時に私は高校生だったから、当時の記憶は鮮明に残っている。

当時は日本国内は全共闘運動が消沈してしまい、さらに三島由紀夫の割腹事件が起きたりと国内にそろそろ根強い閉塞感が漂い始めた時代だった。

「『若者の熱意が世界を変える』なんて嘘だ、世界の行方は密室で脂ぎったジジイどもが密談して決めている、若者パワーなんて全て幻影だったじゃないか」

そういう気分が若者に「三無主義」なんて言葉まで定着させてしまった。

そして隣の韓国という国も非常に厳しい時代だった。
韓国は朝鮮戦争以来アメリカの傀儡政権によって統治される国だった。
しかし李承晩政権は国民の支持を失い、この危機を放置しておくと再びその争乱に乗じて北朝鮮が攻め込んできて今度こそ朝鮮半島は赤色に染まってしまう、アメリカはそういう強い焦燥感を抱いていた。
だから早々と李承晩に見切りを付けて、軍事クーデターを認めてしまう。

この軍事クーデターを指導した青年将校のリーダーが次の韓国大統領になった朴正煕(パク・チャンピ)大統領だ。
日本では朴正煕は冷酷な独裁者として伝えられることが多いが、実際には韓国に高度成長期をもたらした指導者であり、日本の陸軍士官学校を卒業した知日派でありまさに韓国中興の祖ともいうべき人物だった。
しかし民主的な政権委譲によって成立したわけではない朴政権にはアキレス腱があった。

共和主義者であり、敬虔なクリスチャンであり、人格者だといわれた金大中(キム・テジュン)が朴政権への対立勢力として頭角を現してきたことだ。

朴政権は民主的なプロセスによって成立したわけではない。
このことがついに朴正煕が暗殺されるまでこの政権につきまとった弱みとなった。
そこで朴正煕は民主的な選挙によって再選を果たすことで、その汚名を払拭しようとした。
ところがこの1971年の選挙ではあらゆる不正が行われたにもかかわらず、金大中候補の得票は朴正煕を上回ったという。
朴政権は「選挙に辛勝した」と発表して、その結果を疑う民主勢力の言論を封じるためにすぐに全国非常事態宣言を発令、事実上の戒厳令状態に突入してしまった。

朴正煕の対立候補だった金大中は日本に亡命し日本やアメリカで、軍事政権批判の言論活動を繰り広げた。
まさに朴正煕にとって金大中は目の上のたん瘤となった。


朴政権はひとつの決断をする。
それがこの映画で描かれた
「金大中拉致事件」
だった。
これで日本中が騒然となった。なんせ日本に政治亡命している韓国の元大統領候補が、東京の九段のホテルから白昼堂々誘拐されたからだ。

その実行犯はKCIAだということが明らかになってくると、この事件は左翼にも右翼にも火をつけた。
日本の国家の主権が侵害されたのだ。
日本国内では例え韓国人であろうが何人であろうが司法の正当な手続きを経ないで何者も逮捕拘留されたり、国外に強制的に移動されることはない。
またそのような不法行為が行われたら、日本国は敢然とその犯人に対して厳罰を加えなければならない。
例えそれが隣国、韓国の大統領であろうとだ。


この映画では、この謎の多い事件の真相はこうであったのではないかという説得力があるディテールで描き上げられている。

いくつか印象に残ったシーンを上げる

九段の堀端と思われる場所で原田芳雄と佐藤浩市が
「国のために戦うとはどういうことか」
ということを巡って火花を散らすような対立シーン。
このやり取りから自衛官である佐藤に対して原田は特攻隊の生き残りであることがわかる。
憲法違反といわれ、張り子のトラであることが任務とされている自衛隊の立場に大いに不満を感じている若い自衛官に対して、実際に戦地で九死に一生を得た原田は「戦わずにいられるなんて大いに結構なことじゃないか」と対立する。

在日韓国人二世の役の筒井道隆は一世の母(江波杏子)と日本人の恋人の存在を巡って鋭く対立する。日本人の娘と交際している筒井に母は
「金髪でも肌が黒いのでも何でも良いけど、日本人だけは絶対許さないよ」
と迫る。
それに対して筒井は
「母さんの兄弟を殺したのは、彼女じゃないよ。日本人でもいろいろ居るよ。」
と反日感情に凝り固まっている母に反発する。

KCIAの金大中誘拐作戦を事前に察知した防衛庁の諜報官である佐藤浩市は、極秘命令でKCIAを監視するうちに次第に彼らに親近感を持つようになる。
やがて監視するだけでなく、陰に陽に彼らを支援するようになる。
その任務を逸脱した行為を知った上官(柄本明)は、強くこれをいさめる。
しかし朴政権のために命を張って戦うKCIAと何にも命を張っていない、命を張ることも許されない自衛官の立場の開きに嫌気が差している佐藤は聞く耳を持たない。
人目を引かない坂道で(多分紀尾井坂?)黒塗りの車の中で二人は対立する。
「日本の警察をなめるな」
柄本が警告を発する。


誘拐が成功して、当初の計画では日本海の上で金大中を殺害して海に捨てる予定だった。
ところがKCIAの職員の間にも対立が生じて思わぬ事故が発生する。
結局日本の飛行機が飛んできて金大中の身柄について警告をしたので、殺害計画は見合わされた。
(このことは後に実行犯の供述を読んだことがある。実行犯はこの日本の飛行機が飛んできたので殺害をあきらめたと述懐していた)
この時にこのKCIA職員(キム・ガプス)は強い反日感情もむき出しに叫ぶ
「帰れ!お前たちには関係ないではないか!」

金大中のボディガードになって韓国人としての自覚に目覚めた筒井は、かつては忌み嫌っていた韓国語をすこしずつ勉強し始める。
しかし金大中は目の前から消えてしまった。
韓国語がしゃべれないばかりに事件に気がつくのが遅れた自分に、激しい自己嫌悪を感じる。
しかしそういう彼に日本の警官は容赦なく
「朝鮮人のくせに朝鮮語もしゃべれないのか?」
と悪態を浴びせる。
激しく悔し泣きをしながら激こうする筒井の演技に号泣してしまう。

こうして見ると、この物語はまるでフラクタルの図形のように大きな対立を中心軸に置き、その周辺にいくつも相似形の対立を描き出していることが判る。見事な人間劇となっているんじゃないだろうか。


監督の阪本順治は「顔」「トカレフ」などで情念に取り付かれた人間の凄まじさを描き出した。 そういうテーマには定評がある監督だ。
この人はすばらしいドラマツルギーであり、ストーリィテラーであると思うのだがひとつだけ不満がある。
この監督は「トカレフ」というような映画を上梓しているにもかかわらず銃には全く関心がないということだ。
このKTでもKCIAの職員が妙にモダンな銃を使っていたのが、ちょっと興ざめだった。
当時の韓国の諜報員ならガバメントかPPK/S、M1910などの足がつきにくい銃を使っていたに違いない。
そういえば「トカレフ」でも物語のクライマックスでトカレフが弾切れしたと相手に思わせるためにカチカチと音をたてるトリックを主人公が使うという話になっている。
しかしトカレフは弾切れになってもカチカチなんて音をたてたりはしない。
弾切れするとスライドが止まって、引き金も撃鉄も動かなくなるのだ。

昔日本の私服警官が使っていたブロウニングのM1910は弾切れになってもスライドが止まらないしストライカー形式という珍しい発火方式を使っていたために、この銃は弾切れになっても気がつかずに引き金を引くことがあるし、その時に一回だけカチッと音がした。

多分そこらから、昔の映画やテレビドラマに銃は弾切れになるとカチカチと音がするということが広がったのだろう。
テレビドラマなんかでもよくこういう間違った描写が出てくるが、これはM1910という非常に珍しいメカニズムを持っていた銃の独特の欠陥で、それ以外の大部分の銃はそんな音はしない。
にもかかわらず阪本監督は、その間違った常識を「トカレフ」という銃の名前をタイトルにした映画のクライマックスの仕掛けにしてしまった。
映画なんて楽しめれば良いんだともいえるかも知れないが、銃のことをちょっとは知っている身から見ればこういうところが興ざめしてしまうのだが。

しかしそういうわずかなディテールを除けば、この映画は本当に良くできていると思う。

この映画を観たキム・テジュン韓国大統領(当時)は涙を流しながら
「まことに事実はこのようなことであったに違いない。」
と感想を言ったという。
最大の当事者である事件の被害者にそういわせたこの作品の力には圧倒される。
優れたフィクションの想像力は真実に迫る力を持っているのかも知れない。


余談だが、最近韓国政府の当時の外交資料が公開されこの金大中事件はどういういきさつで政治決着されてしまったのかが明らかになってきた。

資料によると田中角栄総理大臣(当時)が韓国の大使にこの件をうやむやにすることを持ちかけたという。
自民党政権にとってはこの事件は迷惑この上ない、しかもこれを問題化しても何の利益もない事件だったということだろう。朴政権からすれば、この日本政府が提案してきた八百長試合は渡りに船ということになる。
これでこの事件はお手盛りになってしまい真相は究明されないままになってしまった。
世論は韓国政府による主権侵害だと騒ぎ立てていたにも関わらずだ。

結局当時の若者が感じていた
「『若者の熱意が世界を変える』なんて嘘だ、世界の行方は密室で脂ぎったジジイどもが密談して決めている、若者パワーなんて全て幻影だったじゃないか」
という直感は正しかったことになる。

この時代から蔓延し始めた閉塞感は、事件から33年も経った現在まで日本全国を覆い続けている。
この事件はそういう閉塞感の時代の原点のひとつだったのではないだろうか。

そういう意味ではこの金大中氏事件は、韓国人の政治劇でありながら日本の行方を決めた事件でもあったかも知れない。














許されざる者


監督  クリント・イーストウッド
キャスト クリント・イーストウッド、モーガン・フリーマン、ジーン・ハックマン

失われた西部劇の挽歌を装いつつも全く新しいタイプのガンファイト劇

先日、型破りな女性教師の過去を描くドラマを観ていたら子供が
「どうして人を殺してはいけないんですか?」
と真顔で教師に聞き返すシーンがあってハッとした。
そうだ、今の子供の感覚はああいう感じなのだ。
人の命とか、生死とかいう問題にリアリティを感じられないから人を殺してはいけない理由が感覚的に理解できないのだ。

いつからこうなってしまったのだろうか。
多分間近に人が死ぬところをあまり見なくなったし、痛みを感じることもなくなってしまった。
今は病院でも葬儀社でも死んだ家族に子供を近づけないし、子供同士は外で取っ組み合いの喧嘩をするなんてこともなくなってしまった。
だから、死ぬということも実感できないし、自分が殴られるまで殴られたら痛いという感覚もわからないのだろう。

映画の変遷を観てその答えを感じることがある。
例えば昔のアメリカの西部劇では、女や子供を殺したり暴力を振るうなんていう描写はなかった。
そんなことをしたら当時は観客のブーイングで、上映を続けられない。

それどころか男同士のガンファイトでも背中から撃つのは御法度だった。
そういう卑怯な行いをした者は物語の最後までに必ずその報いを受けなくてはいけない。
そうでないと観客が納得しないからだ。


こういうジョン・フォード世代のフェアな西部劇がアメリカの西部劇の伝統だった。
それは過剰に美化された世界ではない。
なぜなら本当の西部開拓時代がそういう時代だったからだ。
1940年代のジョン・フォード等の全盛期にはまだ西部開拓時代の生き残りが撮影現場にもいた。
それはほんの50年前の世界だった。
この時代には、子供時代にトゥームストーンでワイアット・アープ等が撃ち合いをするのを実際に見たという老人がまだ生きていた。
このワイアット・アープ一家とクラントン一家の有名な銃撃戦は、こんにちのニュース原稿風に表現すると
「トゥームストーン市のO.K.貸し馬場裏の空き地で男たち9人が発砲。このうち3名が死亡、3名が重軽傷を負った」
という事件だ。

ところがこの事件は西部だけでなく全米を揺るがす大事件として報じられ、伝説になって何度も映画化されている。
このことから何がいえるかというと、
「西部開拓時代は拳銃を吊った男たちが闊歩する無法時代というイメージとはほど遠く、実際には穏やかな、秩序だった時代だ」
ということだ。

今だったらこのような事件は全米を揺るがすような大事件とはいえないだろう。
死んだのはたった3人だ。
もっと大勢の人が死んだ事件は、アメリカ通史の中でもたくさんあった。
しかしこれが全米を揺るがしたということは、逆にいうとそれほどこの時代は大きな事件が少なかったということがいえる。
実際には毎日人が殺されるような殺伐とした時代ではなく、意味なく人を撃ったりした人間には厳しい罰がくだされるという秩序の時代だった。

これは例えば江戸時代は時代劇とは違って、実際にはほとんど殺人事件が起きない時代だったというのと似ている。
江戸時代には数十万人の人々が腰に一本半人斬り包丁を差していた。
それだけでなく例外措置としてさらに数万人が一本人斬り包丁を差していた。
こんな物騒な時代なのに、実際にはドラマと違ってこの時代にはほとんど殺人事件が起きなかった。
治安の良さは今よりも上だ。
なぜそうなのかというと、秩序が厳しかったからだ。
武士は無礼打ちは斬り捨てご免と学校で教えられてそういう時代だったと思われているが、実際には無礼打ちで町人を斬り捨てるとよほどの理由がない限り閉門蟄居、悪い場合は改易家名断絶などという厳しい処罰が待っていた。


話がそれたが、西部劇の世界は殺伐とした世界ではなかったはずなのだがそれが決定的に変わった事件が起きた。

マカロニウエスタンのヒットだ。

アメリカではスパゲッティウエスタンと言っていたらしいが、要するにアメリカ製ではないイタリア製の西部劇だ。
イタリア人は本当の西部開拓時代を知らないから、この時代をカリカチュアとしてしかとらえられなかったようだ。
この世界では悪役は相手を背中から平気で撃つし、女も子供も殺す。
しかもこのマカロニの悪役は人を殺す時に苦悩なんかしたりしない。
平気で、顔色ひとつ変えずに人を殺す。

悪役がこういう凶暴な奴だから、そういう奴らが報いを受ける時に大きなカタルシスがあるわけだ。
この悪役どもをまた顔色ひとつ変えずに撃ち殺していくのがクリント・イーストウッドだった。
大部屋俳優だったクリント・イーストウッドはまさにセルジオ・レオーネのマカロニウエスタンでスターになっていった。

クリント・イーストウッドも正義のために苦悩しながら戦ったりしない。
女や子供に優しいわけでもないし、欲得でたまたま悪人どもを滅ぼすだけだ。
そういう無情なストーリィがクールだということでマカロニウエスタンはヒットした。
この殺伐とした西部劇がヒットして、正義のヒーローは顔色ひとつ変えずに悪人どもを撃ち殺していくのがアメリカンスタンダードになった。


そしてやがて西部劇そのものが衰退してしまった。

90年代に西部劇のリバイバルブームだと言われた時に、この二つの潮流と全く違う流れが起こった。
そのきっかけになった映画がこのクリント・イーストウッドの「許されざる者」だったと思う。

この映画では主人公のウイリアム・マニー(イーストウッド)はかつて勇名を馳せた列車強盗団の頭目だった。
「動くものは女でも子供でも殺す」
という評判で名高かった。
しかし実際のウイリアムは、改心して結婚し子供を設けたが妻を病気で失い、泥まみれになって豚を飼う平凡な農民になっていた。
生活が立ち行かなくなったために懸賞金がかかった殺しの話を聞いて、ためらいながらも銃を取るという主人公として描かれる。

かつての仲間(モーガン・フリーマン)を連れ出したが
「そいつを見つけ出したとして、本当に殺すのか? 血気盛んだった頃でも殺しは容易なことじゃなかったのに、本当に殺せるのか?」
と問いかけられイーストウッドは黙り込んでしまう。

イーストウッドは「女でも子供でも殺す」なんていう評判とは全く裏腹に、本当に人を撃った時にすくみ上がってしまう。
「もう撃たないからそいつに水を飲ませてやれ」
と相手の仲間に叫ぶシーンは印象的だ。
そうだ、本物の銃で生きた人間を撃つというのはものすごく怖いことなのだ。
撃たれる方も怖いが、撃つ方だって同じくらい怖いはずだ。
引き金を引いただけで撃たれた相手の何十年かの生涯が、ロウソクの火が吹き消されるように消えてしまうからだ。

この映画ではそういう斬った張ったの現場の人間の心が、リアルに描かれている。
マカロニでは全く描かれなかった人を殺す方の心理のことだ。


敵役のジーン・ハックマンも単純な悪党ではない。
本当に街の治安を維持したいという動機で保安官をやっている。
しかしそれをやりすぎて、徹底的に暴力的な解決をしてしまう。
「悪に対してはある場合は、強烈な暴力が必要なのだ」
という信念でやっている姿は最晩年のスティーブ・マックイーンの映画「トム・ホーン」を彷彿させる。

ガンマンの腰巾着のような新聞記者にガンファイトの神髄を語るシーンがある。

「物書きは目にも止まらぬ早撃ちとか書きたがる。しかし実際には速く抜くなんて何の意味もない。自分はこのくらいの速さでしか抜けない。しかしガンファイトの時には落ち着いて相手をしっかり狙える奴が生き残れるのだ。慌てて早撃ちをしようとする奴は死ぬ。」
そしてハックマンは「イギリス人ボブ」の手が届くところに銃を置いて、それを実証する。

高熱を出してすっかり闘争心を失ったイーストウッドにもハックマンの「正義」の暴力は容赦なく振るわれる。
ここから物語は急展開する。


イーストウッドに腰巾着のようにまつわりついていた若い「スコフィールド・キッド」はウイリアム・マニーに憧れて
「何人も人を殺したとがある。そのうち一人はナイフで殺した。」
とうそぶいている。
しかし本当に人を一人撃ち殺してしまったあとは、砂をかむような顔をしてバーボンを飲みながら
「もう帰る。金は要らない。」
と言い始める。

人を殺すというのはその殺した人間の人生観さえ変えてしまうほどの重大事件のはずなのだ。
顔色ひとつ変えずに人を殺すなんてことは、普通の人間には到底不可能なはずだ。
この映画は斬った張ったの命をやり取りするようなストーリィを描いているが、人を実銃で撃つ人間の心をリアルに描いていると思う。
そして一回でも人を殺したことがある「許されざる者」たちの苦悩は、マカロニウエスタン以降の映画では全く描かれなくなった心理であるという意味では、これは新しい西部劇の潮流になった。

その経験を最も積んでいるイーストウッド扮するマニーは、殺人を再び犯すことの恐怖に捕われるが、結局は古くからの友人を殺されさらし者にされた怒りから最後は若い頃のように酒の力を借りて修羅場へ飛び込んでいく。
「お前に正義はない、地獄で待っているぞ。」
と捨て台詞を吐く重傷を負ったハックマン演じる保安官に
「ああ」
と短く一言だけ答えてとどめの一発を撃ち込むイーストウッドには自分も「許されざる者」なのだということが身にしみている。


これが物語の中心軸なのだが、この映画は殺すの殺されるのというテーマを扱いながら、なぜか殺伐としたマカロニウエスタンを観たあとのようなささくれ立った後味は残らない。
「若い頃のオレはクズだった。彼女が俺をまともな人間に変えてくれたのだ。」
と死んだ妻のことを述懐するイーストウッドの優しい表情の演技は、彼の次回作の
「マジソン郡の橋」
に通じるものがあった。
クリント・イーストウッドってあんな優しい表情の演技ができる役者だったんだねということを発見するだけでもこの映画は価値がある。
このシーンでこの映画は若い頃のヒット作「ダーティ・ハリー」よりも遥かに深みを持った。

ラストシーンにイーストウッド監督の優しさが滲み出ている。
この映画は往年のジョン・フォード時代の西部劇とも全く違う、リアルな西部劇なのだがマカロニウエスタンのように殺伐ともしていない全く新しいタイプの西部劇となって、多くの模倣者を生んだ映画になった。
そういう意味では一時代を画した映画だが、残念ながら未だにこれを超えるような新しいタイプのウエスタンは出てきていないように思う。
まさに名作だ。














ロッタちゃんはじめてのおつかい


監督   ヨハンナ・ハルド
キャスト グレテ・ハヴネショルド
原作   アストリッド・リンドグレーン

子供の感覚、スウェーデンの生活風景を活写したスマッシュヒット

テレビ業界には
「子供と動物には勝てない」
というジンクスがある。
ジンクスというほどのことでもないが、どんなに構想ン十年、莫大な予算と有能な人材の知恵を寄せ集めて緻密に計算された演出をして番組を作っても、視聴率では動物ものと子供の出てくる番組には勝てないのだ。
動物と子供には演出は通用しない。だってどんな動きをするか全く読めないからだ。
だからテレビなんて一生懸命考えて作るもんじゃないといえる。
テレビは馬鹿が作る白痴のためのメディアなのだ。

よく似たバリエーションで言えば、「京都とラーメンには勝てない」というのもある。
旅番組で京都を映しておけば、何の工夫がなくても視聴率が取れる。視聴率が低迷して知恵が尽きたらラーメン特集をやれば良い。

だから最強のテレビ番組というのは、京都の古都の風景に埋もれる知られざるこだわりのラーメン店を次々といたいけな子供と動物が訪ね歩くというような番組を作ればいい。
そうすれば演出がどんなにヘボでも絶対レーティングを取れる。
そんな馬鹿な番組観たくないという反論が聞こえてきそうだがこれが現実なのだ。視聴者がそういう物を求めているのだから仕方がない。

同じようなことでいえば
「ワイドショーでリポーター連中が犯罪被害者の遺族に『今のお気持ちは?』なんて突撃やっているマスゴミの感覚が許せん! マスゴミに良識無し!!」
なんていう便所の落書きのような正義漢ぶった書き込みがインターネットにはあふれているが、これもそれ自体が自家撞着していると思うのだ。

マスゴミは自己の鏡と思えということだ。

そんなに無神経なワイドショーが許せないのなら、そんな物観なければいい。
そうすればテレビだって民間企業なのだから、誰も観ない番組をボランティアでいつまでも放送し続けるわけにはいかない。
そういう番組は自然に消えてなくなるだろう。
そういうゴミみたいな報道がはびこっているのは、そういう物を喜んで観る奴がいるからだ。
そういう物を流せばレーティングが取れるんだから仕方がない。
それを流し手もゴミだと思っていても、それが求められているんだから仕方がない。
それがいやなら社会主義に移行して、マスコミは全て国営にするしかないだろう。
テレビは馬鹿が作る白痴のためのメディアだというのはこういう意味だ。

この映画も作り手の意図がどうかは別にして、日本ではほぼそういう売り込み方をされている。
速い話が
「ロッタちゃん、はじめてのおつかい」
という邦題が既に俗悪だと思うのだ。
これは例の視聴率を取れる代表的な子供をダシにした番組の「はじめてのおつかい」からいただいたタイトルだ。

そういうタイトルにして、スウェーデン人の金髪のいたいけな女の子を主人公にすればヒットしないわけがない。
そしてこの映画に関してはそういう俗悪な商業主義にすっかり乗せられていることにも気づかない若い女性を中心としたファンたちが
「ロッタちゃんの可愛らしさと、優しい頼りになるお兄さんお姉さん、家族の絆が最高に幸せにしてくれる」
なんていう意味不明のオバカな映画評をそこいらに書きまくっている。
全く俗臭がぷんぷんとする「ロッタちゃんファン」に反吐が出そうになる映画ということになる。

大体あの映画をどういう見方をすればそういう感想が出てくるんだろうか?
優しい頼りになるお兄さんお姉さんは、ずっと意地悪ばかりしているぞ、見えてないのか?
字幕の意味が理解できないのか?


日本でのヒットの仕方があまりにも低俗でやりきれないのだが、じゃ肝心のこの映画自体もそういう低俗などうしようもない映画なのかというとこれがそうともいえない。
この映画は、もっとシンプルなというか素朴な味のある映画だったことが救いだった。
似たタイプを探すなら、ルイ・マルの「地下鉄のザジ」のようなというかライアン・オニール、テータム・オニール親娘の「ペーパームーン」というか、あまり他に類型を思いつかないのだが。
(間違っても「ホームアローン」とかはいわないで欲しい。全く違うから)

この映画は子供に好きなように演技をさせて、それを撮った映画ではない。
それどころかの映画にはちゃんと原作がある。
原作は「長靴下のピッピ」の代表作があるスウェーデンの児童文学者のアストリッド・リンドグレーンの作品で、観比べてみればこの映画は結構原作に忠実に映画化されている。
原作は短編なのだが、3作のエピソードをひとつにまとめてこの一本の映画にしている。
原作に忠実だということは、この作品は子供の偶然の動きから生まれた映画ではなく、演出的にちゃんと設計された映画だということだ。
それにしては子供の演技の自然さに驚くし、情景の瑞々しさにも感心する。

私はスウェーデンには取材で一週間しか行ったことが無いが、観光と違って取材でいくと地元の生活臭に触れることは観光客よりは多い。
その少ない経験から言えばこの映画はスウェーデンの質素だが、パステルカラーのカーテンや壁紙でインテリアを明るく装飾するスウェーデンの生活の雰囲気がよく出ていると思う。

クリスマスツリーの樅の木を買えないと言って子供たちが落胆するシーンがあるが、これも北欧の空気というか日本と違って向こうではクリスマスツリーは生木を使うのだ。それはイミテーションのツリーを買うお金が無いのではなく
「クリスマスツリーくらいは生木でデコレーションしようよ」
という感覚なのだ。

ロッタちゃんはお姉さんやお兄さんの意地悪にもメゲズ常に明るく細かいことを気にしないおおらかな女の子だ。(ロッタちゃんはお姉さんやお兄さんにいじめられているのだ。オバカなロッタちゃんファンはもう一度映画を良く観て欲しい)
このいかにも末っ子らしい鷹揚なロッタちゃんの性格に、家族だけでなく街の人々も心和まされていき皆「少し幸せな気分になる」というのがこの映画のあらすじということになる。

この「少し幸せな気分になる」というのが、この原作者並びに映画製作者の身の程を知っているところで、ロッタちゃんによって皆が救われるわけではない。「少し幸せな気分になる」くらいなのだ。

例えばギリシャ移民のお菓子屋さんが店を畳んで国に帰るというエピソードがある。
これはヨーロッパの今日的な問題で、東ヨーロッパと西ヨーロッパ、旧社会主義諸国、軍政諸国と旧自由主義諸国の貧富の差はいまや隠しきれないくらい大きくなっていて、東ヨーロッパの人々は西側に移民したり出稼ぎしたりという構図があるわけだ。
しかしここでも十分に優遇されているわけではないし、このギリシャ人は街で唯一軒のお菓子屋さんを営業するというほど地元に溶け込んではいるが結局商売がうまくいかなくて、国に帰る決断をする。

だからロッタちゃんには予想外の楽しい週末になるという話につながっていくわけだが、作者はちゃんとこういう今日的な状況に背を向けていないところがヨーロッパ的だと思う。

こういう状況を簡単に救ったりはできない。
「少し幸せな気分になる」という程度のことだ。でも結構八方ふさがりなヨーロッパの空気の中ではそういうことの方が、リアルだしむしろ心救われるということなのかもしれない。
だからこの映画は「ロッタちゃんのちょっと良い話」という感じのタイトルがふさわしいと思う。


日本のロッタちゃんファンのトチ狂いぶりがいやでこの映画は今まで観ていなかったのだが、ちゃんと観ればやはり良い映画だと思う。
ロッタちゃんの「スラローム」はめまいがするほど可愛らしかったから、やっぱりそういう魅力は確かにある。
だからこの映画にどういうトチ狂い方をしてもかまわないのだが、やはり映画としてちゃんと評価してあげて欲しいなということは思うのだ。
そういう評価をするなら私的にはこの映画は素晴らしい名作というよりも、小品ながらピリッとした作品というくらいの評価がふさわしいと思う。













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