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(宇宙戦争)
監督 スティーブン・スピルバーグ
キャスト トム・クルーズ、ティム・ロビンス
(宇宙戦争)
監督 バイロン・ハスキン
キャスト ジーン・バリー、アン・ロビンス
この映画については、いろいろ書きたいことがあるのだがあちこちに「スピルバーグの映画は好き」だの「嫌い」だの「映像すごいが筋はちゃち」みたいな定型化した批評が氾濫していてそれと同じことを書いていてもしょうがないので私なりに思ったことをアトランダムに書いていく。
まずこの原作のことだがH.G.ウエルズの「宇宙戦争」
という長編になる。
この本については
「信仰と近代合理主義の衝突を象徴している」
だのいろいろ穿った見方もできるのだけどそんな読み方をしても面白くもないし、もっとシンプルに読めば良いと思う。
この小説が書かれた時代背景はボーア戦争の直前で、イギリスがまさに帝国主義的植民地支配を鼻息荒くやっていた時代だ。
どういうことかというとこの小説に現れる「火星人」は、まさにアフリカ人やインド人から見たら「イギリス人」こそこう見えたのではないかというウエルズ一流のレトリックを駆使した寓話ではないかと思う。
そう読むと「火星人」はただひたすら人類を「駆除」するだけで、「宣戦布告」もなければ「和平交渉」もないまさに植民地戦争のスタイルをリアルに描いたという小説であるし、また科学者としてのウエルズの寓話ということであれば「害虫」を駆除する人類は彼ら「害虫」から見れば、この小説の「火星人」のように見えるに違いないという意図も込められている。
ウエルズがこの小説を書いた時代はまだ
「人は神自らの手によって神の似姿に作られた」
という信仰が人々を支配していた時代であり、ダーウィンの「種の起原」ですらまだ
「トンデモ本」
と見なされていた時代だった。
だから、
「神の似姿である人類」
をごきぶりのように駆除される側として描いたというウエルズの痛烈なアイロニーこそがこの作品のバックボーンなわけだ。
要するにこれを読めば
「駆除される害虫」や
「植民地支配される未開人」
の気持ちがよくわかるという作品だ。
さてそれを現代の文化産業である映画が作品化するという時点ですでに矛盾が起きる。
なぜなら旧版のバイロン・ハスキンの映画の時代にももう
「植民地」
というテーマはリアリティを失ってしまった。
そして新版のスピルバーグの時代になってくると
「人は神の似姿として作られた特別の存在なのだ」
という自己中心的な思い込みすら古典的な妄想になってしまっている。
つまりウエルズ的テーマは時代背景を考えるととても面白いのだが、残念ながらこれを現代劇に持ってくるのはどう考えても無理があるように思うわけだ。
1950年代のハスキン版ですらそうだったのに、その無理にあえて挑戦したスピルバーグがそのことに気がついていなかったはずが無いと思うわけだ。
ましてやスピルバーグは結構なSF通だ。
そのことに気がつかないで、「筋が浅い」だの「消化不良」だのと書いている批評が多いのががっかりする。
スピルバーグが描こうとしたのは
「リアルな宇宙人」
なんかではなく、
「リアルな戦争」
なのだと思う。
実際戦争の報道フィルムを見てみると、20世紀初期の最初の世界大戦から最新のコソボやイラクまでどれをとっても同じことが言えるのだが、戦争の本当の姿は
「膨大な数の難民」
という事象で表されている。
どの戦争フィルムにも戦争アクション映画のような派手な戦闘シーンはほとんど収められていない。
実際には近代の圧倒的な火器を装備した軍隊が対峙した時に、アクション映画みたいに簡単に敵前に転がり出たりはできないものらしい。
それよりもフィルムが圧倒的な量で映し出しているのは、家を失い住むべき町も失って子供の手を引いて何百キロも歩く膨大な数の難民の姿だ。
戦争は必ず難民を生み出す。
ましてや近代戦争は必ず根絶戦になってしまうので、一国の数分の一というような単位の難民が流出する。
その難民の姿をスピルバーグは実にリアルに描いたわけだ。
フェリーに乗り込むために鉄橋を渡る主人公たちの袖には膨大な量の
「尋ね人」
の張り紙を貼ったボードが映し出される。
そしてそこまで何十キロも何百キロも続く難民の列。
この光景は見たことがあると思ったら、震災の直後の神戸で見た光景だった。
そう思ってみると実にこの映画は「戦争」あるいは「災害」という理不尽がリアルに描かれている秀作だと思った。
この2作の映画とローランド・エメリッヒの「インディペンデンスデイ」
の関係をちょっと整理しておくと、H.G.ウエルズの古典を無理矢理戦後の核の傘の冷戦時代に力技で持ってきたのがハスキン版の「宇宙戦争」で、この映画に惚れ込んで「映画」のリメークをしたのが、エメリッヒ版の「インディペンデンスデイ」ということになるだろう。
ハスキン版に新しく盛り込まれた要素はスピルバーグ版ではなく、エメリッヒ版の「インディペンデンスデイ」に引き継がれている。
それに対してスピルバーグ版はハスキン版やエメリッヒ版とは全く無関係で、むしろ原作のH.G.ウエルズの小説の雰囲気をどう現代劇に持ってくるかということに腐心しているようだ。
だから飛行機が墜落してきたり、高速道が崩れ落ちるかたわらを逃げ惑う人々の姿を見ると911のフィルムに映っていた人々を連想してしまう。
この映画は要するに
「報道フィルムのような画角で撮った映像」
というところを狙っている。
そういえばこの技法は「プライベートライアン」でも見られたが、逃げ惑う市民を後ろから手持ちのカメラで追うというショットが、まるで報道フィルムのようなリアリティがあった。
この冒頭のシーンではわざと彩度を落とした画像加工をしてますますそういうリアリティを出すことを狙っていたようだ。
この緊迫したシーンを手持ちカメラで撮るという技法は、例えば「博士の異常な愛情」という映画でキューブリックが使っていた。
精神に電波が入ってしまった戦術核攻撃隊の司令官の命令で米ソの間にまさに核戦争が起きようとしている時に、この反乱部隊を鎮圧するためにアメリカ陸軍部隊が米空軍基地を攻撃するというシーンがあった。
ここでこの手持ちカメラで撮影するという技法は多く使われていた。
映画というものは普通は三脚をたててきれいに撮影するのが作法だが、報道フィルムは、特にこういう戦地の報道フィルムは三脚なんかたてている余裕は無い。
場合によっては三脚も持たずに撮影に突入していることもある。
そういう映像をリアルに再現する技法を、スピルバーグは「プライベートライアン」で確立しこの「宇宙戦争」ではまさに熟成しているわけだ。
この映画を見終わった感想は
「とにかくリアルだったな」
ということにつきるんじゃないだろうか。
後半の地下室に閉じこもるシーンの相方は「怪優」ティム・ロビンスだった。
ティム・ロビンスという俳優さんは「さよならゲーム」
という映画でケビン・コスナーにしごかれる「あんちゃん」、ルーキーのマイナー投手の役を好演していて注目している役者さんだった。
その後も「ジェイコブズラダー」などの秀作に数多く出ているが、この映画では
「恐怖のために頭が逝っちゃってる人」
というような演技だったので、これも原作を知っているSFマニアにはずいぶん攻撃されているようだ。
原作の「牧師」は「理性」こそ当てにならないものではないかという一つのアイロニーの象徴として現れるわけだが、ティム・ロビンスはただ単に「逝ってしまっている人」というふうにしか見えなかったところが残念ではある。
これも「災害」や「戦争」と同じく「一種の理不尽」としてこのトム・クルーズの家族に降り掛かってくる試練なわけだが、ちょっとこのシーンは長かったかも知れない。