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誰がために鐘は鳴る
〜フリーウエアは誰のためにあるのか?

For Whom the Bell Tolls


For Whom the Bell Tolls〜誰がために鐘は鳴る
〜フリーウエアは誰のためにあるのか?

 当サイトは、オンラインウエアのレビューを掲載するサイトです。 勿論それだけが趣旨ではないけどコンテンツの主要な部分がそれになっているので、今回の件は見過ごしにできない話だと思いました。 何のことかというと、あるオンラインウエアの機能について作者はユーザに対して「社会的責任」があるのかという話。 「あるオンラインウエア」なんて書き方したって読んだ人は「何のこと?」と詮索するし、話をぼかしてもそういう詮索を生むだけなのでストレートに書きます。 ことの詳細は、ここにまとめられています。 Togetter - まとめ「ユーザの自由、作者の自由」 先日ここで紹介したYoruFukurouの機能について、あるユーザが作者さんに改修を求めたことがその趣旨です。 このYoruFukurouというTwitterのクライアントで、コメントをつけてRT(リツイート)をすると、自分のコメント付きRT以下が表示されなくなるという仕様変更がされたことについてユーザが 「コメント付きRTで会話する人にとってこの仕様変更は不便である。元に戻してもらいたい」 という要望をかなり強い調子で作者に求めたことに端を発しています。 やがて言葉がエスカレートして、 「どのようなTweetをするかはユーザーの自由です。その自由を奪わないでください。」 「ソフトの作者は、作って公開した瞬間に社会的責任が生じるのです。『自分が勝手に作って・・・』という言い方は通用しません。大量のユーザーが居て、それぞれの仕方でTweetしてるのです。自分だけの都合でソフトの機能を制限しないでください。多くのユーザーがいますから。」 「何故自分が勝手に作って無料で公開しているソフトがどのようであるかをあなたに決められればいけないのですか?」 「『柔軟に対応して下さい』、と言いますが俺には俺の意志があります。俺は自分の作りたいソフトを作ります。」 というようなやり取りになってしまいました。 とても残念なことです。  この問題をどう評価したら良いかを簡潔に書くべきだと思いを巡らせていましたが、「うむらうす」の「ハル」さんが既に簡潔かつ的確にこの問題をまとめておられますので、私も同感であるという意味でここでリンクさせてもらいます。 支えるべきもの (うむらうす) どちらが正しいかという価値判断はまとめサイトを見て各人でしてください。 それぞれに一理があって、突撃した@t_hisashiなる人物が一方的に悪いというような印象の流れにもしたくないので(その意味はおいおい書きます)、ここでは私の私的な体験 をふまえて私の感想だけ書いておきます。 ムダに長文にならないように気をつけたいですが多分長文になってしまいます。  弊サイトも一時期閉鎖しようかと考えたことがあります。 一度はサーバ運営企業とのトラブルで立ち退き命令が出た時ですが、その前にも一度あってその時には思っただけでなく全てのページを削除して実際に一時期このサイトを閉鎖していました。 その理由はもうぶり返しませんが、あるユーザが弊サイトのリンク先が不適切であるとクレームを付けてきたことが発端でした。 「こういうサイトを運営するには公序良俗を乱さないリンク先を選ぶべきである」 というのがその趣旨です。 それでその「公序良俗に反するという根拠を明確にしてもらいたい」という趣旨の質問を繰り返しその方に投げたのですが、2ちゃんねるなどのウワサのレベルのサイトを「ソース」というだけで明確な根拠は結局明示されませんでした。  「公序良俗に反する」というのは単に「お行儀が悪い」という意味ではなく「犯罪的である」という意味です。 何人も他人を犯罪者呼ばわりするには明確な根拠を示さなければなりません。それなくして他人を「犯罪者呼ばわり」するのはその人を誹謗するだけであって、その行為にどういう種類の正義も認められません。またそのリンクを私が外したとなったら、その人物の主張を認めたことになり私もそのリンク先を「犯罪的である」と評価したことになります。 こういう判断が、はたして個人サイトの運営者に求められるのか、こういう判断が必要なら私はもうこのサイトを一人で運営していくことは不可能だと考えて、サイトの全ページを削除してしまいました。 その方にもある意味「自分で調べろ」的なニュアンスもありましたが、ここで問題なのは彼の指摘が正しかったのか間違っていたのかではなく、そのようなサイト内の記事やリンク先の正当性までサイトの管理者は『無限責任』を負わないといけないのかということです。  もしそうであるとしましょう。 サイト管理者にはどういう作業が要求されるでしょうか。 サイト内の記事については全て裏を取る、リンク先のサイトの情報を書いている人物のバックグラウンドを全て調べ上げる、その人物の犯罪歴や素行についても調べ上げる、オンラインウエアについて取り上げるならそのソフトを使ったトラブル、事故の事例が世界中で一度も起きていないか確認する、作者に悪意がないかを確実に特定する・・・ そんな作業が、一個人が運営するMacの情報サイトなんかで可能でしょうか?  勿論それほどの精度が要求される世界は存在します。 新聞テレビなどの大マスコミは当然そういう基準で記事を書かないといけないでしょう。 しかし新聞やテレビというのは巨大な装置産業なのです。 その裏取りや情報源の犯歴や素行まで把握して取り上げるアイテムの世界中の事故例まで把握してチェック体制を経たものだけを記事にするなんてことは、巨大資本にささえられ数百人の優秀な記者が常時フルタイムで活動する装置産業であるメディアでないと不可能だということを、私はお話ししたつもりです。 そういう巨大企業と、一個人のサイトとに同じ機能を求めないでくれと。 この主張はどうも相手の方にはあまり伝わったようには思えませんでした。 やはり 「情報を流した者には『社会的責任』がある筈だ、なぜその『社会的責任』を認めようとしないのか?」 というような趣旨ではなかったかと思います。 『社会的責任』に裏打ちされた情報を求めておられるのなら、インターネットに転がっている個人サイトの情報なんか利用しないで、大マスコミの確実な情報を利用していただきたいのです。 もしそれで満足できるならの話ですが。 個人のサイトには、そのような大マスコミと同じようなチェック機能などありませんし、そんなチェックをしていたら別に本業を持っている個人はサイトの運営なんか不可能でしょう。 いかに情熱を持ってしても年に数回も更新できれば良い方じゃないでしょうか。  しかし個人のブログなども含むサイトがネット上には数億か数十億かというオーダーで存在し、そのうちのかなりの数のサイトは読者の支持を得ています。 それはなぜでしょうか? 大マスコミ以上のチェック機能を備えたサイトだからでしょうか? そうではないと思います。 大マスコミに求める情報と、個人サイトに求める情報というのは自ずと違うと思います。 公共メディアとネットメディアというのも自ずと性格は違うと思います。 ここで言いたいのは 「ネットだからいい加減でも良い」 ということではありません。 勿論個人サイトであろうが、その内容についての検証は可能な限りするべきだし、情報を発信するのなら当然その責任はあると私は思っています。 思っていますが、その責任は『無限責任』ではありません。 あくまでその個人の自分の良心の尺度に従った「可能な範囲で責任を取る」という意味です。 「社会的責任」などという恐ろしげなものではありません。 それよりもネットメディアを通じた個人の情報発信の価値はもっと違ったところにあると私は考えています。  ネットはその発生以来常に既存の権威に対するアンチテーゼとして発展してきています。 こちらの「インターネット:Internet」という項目を参照いただきたいのですが、ネットは最初軍の要請で、軍事委員会をスポンサーにして実験が始められたにもかかわらずその発展の歴史は、軍とか大企業とか政治的権威とかいうものとは対極の方向に進んでいったのです。 スポンサーは非常にクローズなものを意図したにもかかわらず、インターネットは大学や研究機関のオープンな情報交換に使われていきましたし、結局インターネットの普及で得られたものは権威をさらに権威づけるという方向ではなく、むしろ逆に個人の発言力を極大化するという方向で進んできました。 この流れは1969年のクラインロック教授の通信実験以来明確ですし、ティム・バーナーズ・リーのワールドワイドウェブ、MacやWindows95などのTCP/IPに最初から対応したOSを搭載したパーソナルコンピュータの普及、ブログの普及やSNS、そして今日のTwitterの普及にいたるまで、その底流は一貫していると思っています。 個人の発言力が極大化した流れは、webによる情報発信だけではありません。 コンピュータ技術の開発そのものが、軍需産業や大企業の巨大プロジェクトから個人の力に降りてきています。 同じくここの記事を参照ください。 ノイマン型コンピュータ: von Neumann-type computer 非ノイマン型コンピュータ: Non-von Neumann-type computer 基本ソフトウエア/ユニックス: OS/UNIX コンピュータという機械は、やはり最初軍の研究プロジェクトとしてスタートし、その利用目的も軍事でした。 しかしその発展の過程で、軍や巨大情報機器産業の研究プロジェクトというところからだんだん離れていき、そのコンパクト化、実用化はむしろ個人のボランタリーな活動によってブレークスルーがもたらされているということがその歴史を見ると分かります。 ワールドワイドウェブのインフラのベースになったユニックスがそうであり、その分身のリナックス、Mac OS XのベースになっているFreeBSDだってそうです。 そこからオープンソースという考え方も出てきています。 非常に珍しい例外がマイクロソフトのWindowsということになります。 インターネットのインフラのベースになったワールドワイドウェブだってMozillaのようなブラウザだってそうです。 個人が自発的意志で開発に参加する、その成果は無償で公開し公開されたものを別の個人が利用してさらに発展させたものを無償で公開するという積み重ねで、コンピュータ技術というものは急速な発展を遂げてきたのです。 そういうものに頼らないで、軍とIBMやテキサスインスツルメントだけで開発をしていたら、今でも我々は個人向けコンピュータに出会っていなかったかもしれません。 ましてやiPhoneやiPadなど夢物語だったかもしれないです。 これはまさにグーテンベルグ的な世界の転換だった筈です。  ここでいいたいのは、我々はこのような技術の発展を享受して膝の上に乗る高速ラップトップコンピュータや、その上で世界の数億人のユーザと繋がれるTwitterのようなインフラを利用できるということが重要だということです。 この変革は巨大装置産業や軍需産業に頼っていたら達成できたでしょうか。 個人の運営するホームページや、個人が趣味で作っているオンラインウエアなんてゴミのようなものだというふうには考えないことです。 そういう種類のものが無ければ今日の世界は訪れなかったかもしれないからです。  私は個人の体験に沿って個人サイトはその情報に対して『無限責任』を負うものではないと書きました。 その理由は、もし『無限責任』を負わされるのであれば、そこにシロウトのボランティアなど参加する余地はありませんし、そういうものは全てのチェック機能を備えた巨大装置産業で行われるべきだが、はたしてそれで充分満足できる情報、あるいはソフトウエアなどの成果物は得られるのかということです。 「得られる」と考える方はどうぞそちらのドアに進んでください。 しかしそれだけでは不十分だ、というよりむしろ今日のweb、コンピュータ技術の進化を見てしまったらもう権威だけに頼ることは「後退」ではないかと考える方は、たとえ「自己責任」というリスクを負わされるとしても、その方がいいと考える筈です。 これがwebのカルチャーであり、オンラインウエアのカルチャーであると私は考えます。 勿論これは私の考え方ですので、賛同しない方、やはりオンラインウエアの作者には『無限の社会的責任』が発生するのだと考える方は居るでしょう。 しかし、そういう人がどう考えようと、これまでの歴史はこのように進んできたし、おそらくこれからの歴史もそのように進んでいくのではないかと私は思っています。  もしそうであるならば、そうしたボランティアの作者、ボランティアのホームページ管理者に『社会的責任』を押し付けて萎縮させるのと、全て利用者の自己責任であることを認めて彼らに自由に活動してもらうのと、どちらが利用者にとって利益に沿うでしょうか? このことはどちらが正義かとかどちらが正当か、筋が通っているかとかそういう問題ではありません。 どちらが全てのユーザにとって利益に沿うかという問題です。 全てのユーザというのは単にクライアントアプリをインストールしている人という意味ではなく、そのソフトを利用して何かを作ったり将来に渡ってそのソフトの成果を利用し続ける人、その影響で登場する別の技術革新の利益を享受する人、それらの全ての人をさしています。 単にそのクライアントをインストールしているユーザという意味に限定していないところに、注目して欲しいと思います。 少し具体的な話もしましょう。  今回の件ではYoruFukurouの作者さんの意図は 「コメント付きRTで会話を重ねると、元コメントが切れて『改竄』のような結果になってしまう。 RTはあくまで誰かの発言を伝播したい時に使うべき機能で、会話はリプライ(返信)を使うべきだ。だからYoruFukurouではRTで表示に制約を加えた」 ということになると思います。 この意図は私は非常に理解できます。 この一ヶ月ほどTwitterを利用して、非常に不便だと思っているのは会話を追いきれないために誰が何を発言しているのかさっぱり分からないケースがあるということです。 それはまさにコメント付きRTが重ねられている場合で、勿論当事者同士やその元発言からずっとトレースしている親しいフォロワーはそういう短縮が行われても意味が分かるんでしょうが、Twitterはもっとオープンな空間だと思うのです。 たまたま流していて、RTが重なったコメントに行き当たったが、元コメントが短縮されているために結局会話の相手のアカウントと最初のアカウントの間をあちこち往ったり来たりしないと、会話の正確なニュアンスが把握できないという不便を感じています。 リプライで応酬されているならクライアントアプリの機能で会話調に並べて読むことができますが、このRTの段重ねは非常に読みにくく、内輪の会話になってしまっている気がします。 YoruFukurouの作者さんのいわれるように 「会話はリプライを、RTは伝播専用に」 という使い分けが徹底されればTwitterはもっとシロウトにも使いやすいメディアになると思います。 しかしここで@t_hisashiさんのいわれる内容にも全く理がないわけではありません。 『多くのユーザがすでにRTを重ねて会話する方法に慣れてしまっていること、 たとえTwitterがコメント付きRTを正式にサポートしていなかろうが、現実にそれは多くのユーザによってやり取りされていること、 そしてYoruFukurou以外の全てのTwitterクライアントはRTに関してどういう制限も設けていないこと、 これらを勘案してYoruFukurouもそういう制限を解除して、そこはユーザの考えにまかせるのが大勢の利益に沿っているのではないか? 作者の思い込みで仕様を変更していいのか?』 この指摘が、実際にYoruFukurouを利用しているユーザの間でも支持されているようなので、ここは「どちらが正しいか」ということを論じても結局水掛け論になるだけだと思われます。 いずれにも「ワレに理あり」という部分があるからです。  ならばどちらが正しいかではなく、どちらが全てのユーザの利益になるかという先ほどの考え方で演繹してみればどうでしょう。 もちろんこの「全てのユーザ」というのは先ほど書いた通りYoruFukurouをインストールしている全てのユーザという狭い意味ではなく、YoruFukurouを利用していないがTwitterを利用しているようなユーザも含めてという意味です。 私の感想をいえば、やはりYoruFukurouの作者さんがおっしゃるように 「RTは伝播用、会話はリプライで」 というルールが定着した方がTwitterは初心者にも分かりやすくなると思います。 そしてYoruFukurouが先駆けになってやがて、他のクライアントアプリもそれに習ってその方向に進んでいけば、RTで会話している人にとっては不便かもしれませんが、部外者も会話に入っていきやすくなるし初心者にも話が見えやすくなります。 そうなるかどうかは分かりませんがYoruFukurouがその方向性を志向しているというなら、ユーザはそれを支持して応援してしかるべきだと考えます。 作者さんのビジョンが共有できればの話ですが。 もしいくら話してもビジョンが共有できないならYoruFukurouの使用を中止するという選択肢もあります。 クライアントアプリがYoruFukurouしか存在しないなら問題ですが、Twitterに関しては数多くのクライアントアプリが存在します。 「気に入らないなら使うな」 ということを言っているのではありません。 違うビジョンを持った作者さんを応援して、競ってもらえば良いのです。 このわずかな変化が大きなイノベーションをもたらすかもしれませんし、そんな大層な変化もないかもしれませんがそれは今現在の事象しか見ていない我々が短兵急に評価すべきではないと思います。 その結果を見ないで現状で 「前の操作に慣れているから勝手に仕様を変えるな」 とアタマを叩くような要望は作者さんのモチベーションを下げるだけです。 「やってみなはれ、どっちが良いか見てみまひょ」 くらいのおおらかさがオンラインウエアのユーザにも必要ではないでしょうか。 最後に当サイトでのオンラインウエアの表記の基準について触れておきます。 当サイトでは全てのソフトウエアを フリーウエア シェアウエア プロダクツ の3つに分類しています。 これは主に利用者の便のためにそうしています。 フリーウエアにはドネーションウエアも一切の寄付も受け付けない完全フリーウエアも含まれます。 ドネーションウエアも正確にはお金の寄付を受け付けるもの、メールマガジンの購読を条件にしたり社会貢献やビール券を条件にしたり、作者にジョークを一つメール送付するということを条件にしている作者さんもおられます。 これは全て作者さんの考え方で設定されています。 これらも全てひっくるめてフリーウエアとしているのは決して作者さんの意図を軽視しているわけではなくフリーウエアというのは 「作者さんの好意によって使わせていただいているアプリなのだ、だから無料(フリー)で金銭的制約はつかない」 という意味で一つのくくりにしています。 「フリー」 というのはあくまで金銭的制約がつかないという意味で、作者さんに著作権も所有権もないという意味ではありません。 むしろ多くの場合作者さんは著作権を放棄していません。 (確か著作権の放棄はできないという文章をどこかで読んだ気もするが、記憶が曖昧 :追記E-WAさんから情報:著作財産権は放棄も譲渡も可能だが著作人格権は放棄できないという話でした。ちょっとスッキリ。) これに対して「シェアウエア」を区別しているのはこれもあくまで利用者の便のためという意味しかありません。 シェアウエアであろうと、つまり使用に当たっては金銭的な制約が発生するオンラインウエアであろうと、 「作者さんの好意で使わせていただいているアプリ」 であるという事実は全くフリーウエアと変わりがありません。 作者さんが止める気になれば「シェアウエア」でもいつでも配布を中止することができますし、そのことで作者さんには「社会的責任」は発生しないと考えています。 お金を取っている意味はたとえ個人の趣味の延長といっても、そのアプリを作るために開発言語の資料本とか結構な費用がかかっているし、実際アプリをリリースすればデバッグなどで多大な手間がかかるのも事実です。 「その手間と出費に見合うお金が多少とも入れば、モチベーションが維持できるんだが」 と考えるのは普通のことですし、大部分のシェアウエアというのはその程度の意味合いで料金が課されています。 ネットには「嫌儲」という不思議な発想をする人達が居て、 「金儲けしてんだから責任あるだろ」 という発想になる人が多いようです。 今回でも 「フリーウエアだから対応する義務はないというのならシェアウエアにすればいい、仕様を変更してくれるなら喜んで金払う」 という反応をしている人もいましたが、これも見当違いです。 金を取るかとらないかは、あくまで作者さんの自由意志で利用者がどうこういうことではありません。 シェアウエア料金は、あくまで利用者から作者さんへの謝礼だと考えています。 その意味で当サイトでは「シェアウエア」と「プロダクツ」を分けています。 「プロダクツ」は完全にビジネスとして、企業が製品を開発しているものという基準で分けています。 実はこの場合も境界線は曖昧ではあるのですが、当然ビジネスで販売しているソフトウエアと謝礼を払って使わせていただいているソフトウエアは、その根底の考え方は違うと思っています。 ただビジネスで販売しているソフトウエアも全てのユーザの要望に応じる義務があるかというと、そうでもないようです。 これは「ハル」さんも指摘しているところですが、直近の例でいえばアップルは多くのMacユーザの反感を買ってクラシック環境を切り捨ててパワーPCも切り捨ててインテルに移行しました。 ユーザの意向に沿う義務が販売者にあるのであれば、OSXもインテルMacも実現しないことになります。 そういう世界を望むならそれもありかもしれませんが。  以上既に「ハル」さんが明確にオピニオンをまとめた後で蛇足になりそうなので、私はむしろ周辺の感想を中心に書いてみました。  結論からいうとオンラインウエアの作者さんはのびのびと思うところを試してみてください、  ユーザの皆さんは作者さんを暖かく応援してあげてください、  そうして選択肢がどんどん増えれば、自由度も高くなり結局はユーザの利益になります。 とにかく「なんとか原理主義」みたいなところにだけはお互い落ち込まないということでありたい・・・今思っているのはこういうことです。



2010年5月16日
















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青木さやか