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蜘蛛女
キャスト ゲイリー・オールドマン、レナ・オリン、アナベラ・シオラ
この映画の評で多いのはレナ・オリンとゲイリー・オールドマンの火花を散らすような演技をたたえるということになるだろうと思う。
レナ・オリンはスウェーデンのモデル出身(だったと思う)で女優に転身して注目を集めたという人で、ゲイリー・オールドマンは天才シェークスピア役者として若いうちから評判が高かったという二人だ。
二人の演技の質の高さは、ググッて頂ければいろんなところに書いてあるのでそちらにお任せするとして、この映画自体は出演者、演出サイド、撮影スタッフ、皆ノリにノッて楽しんで作ったというのが画面から伝わってくる秀作だ。
「ほらぁ、こんな恐い話があるんだよ。これに比べりゃホラー映画なんて子供ダマしみたいなもんだろ?」
と撮影スタッフやキャストがつぶやいているのが聞こえてきそうだ。
そう思うくらい、この映画は男にとって、特にある程度年齢を経た既婚者の男にとって戦慄せずに見ることはできない内容になっている。
悪女、毒婦を主人公にした物語、映画は古今東西数限りなくある。
悪女に振り回され、全てを搾り取られて男が駄目になって狂い死にのような状態でカタルシスを迎えるというストーリーはたくさんあるが、その多くは男の駄目さ加減に同情できなかったり、女の悪女ぶりにリアリティを感じられなかったりですんなり入っていけない物語も結構多いのだ。
ところがこの映画は男の駄目さ加減がとても良く理解できる、「そう、そういう誘惑への弱さはオレも持っているよな」という部分がとても共感できる。
様子の良い女性に黒ストッキングの美しいおみ足で締め上げられれば、たいていの男は少しは心動かされる。
ましてや「進むも地獄、退くも地獄、同じ地獄ならたんまり金が入る方へ行ってしまえ」というヤケクソのような心境も痛いほど分かる。
結局マフィアの女ボスに振り回され堕ちるところまで堕ちてすべてを失ってしまう男の物語というのは、男が大好きな「恐いもの見たさ」なのだと思う。
映画というのは見る時の年齢や自分の状況で心に残る部分がかなり変化する。以前に見た時にはこのレナ・オリンの魅力とそれに簡単に篭絡されてしまうゲイリー・オールドマンの絡みばかりが心に残った。
しかし最近この映画を見直してみて、一番恐いのは主人公の奥さん役のアナベラ・シオラが何を考えていたのかということに思い至ってますますこの映画は重層的に戦慄するという構造を持っていることに気がついた。
彼女は旦那の女癖の悪さに薄々気がついている。
しかし男は過去の悪行はバレているかもしれないが、今やっていることは知らないだろうと思っている。
彼女がある日オールドマンに語りかける。
「結局私たちには何が残るの?
セックスには飽きるし、愛情は色あせるわ」
とつぶやく。
しかし男がマフィアの抗争の板挟みになっていよいよ家族にも危険がおよぶという状況で、女房を高飛びさせようと空港まで送った時に彼女は別れ際に言う。
「私の心は化粧台の中の物を見てもらえれば全て判るわ」
結局その物は男の全てを知っているという証拠だった。
「モナ」
と書かれた写真が抜き取られたのは男が処分したのだ。女は全てを直視していた。
モナは死ぬ直前に言った。
「あんたの女房はあんたと同じように死んだわ。」
彼女は「殺した」とは言わなかった。
この奥さんは殺されたのか?それとも男を見限ったのか?
そう思ってみれば、この奥さんの言動は全て裏が読み取れるのだ。
男はマフィアから賄賂を取ってしこたま溜め込んでいたが、そのことは女房にも黙っていて愛人に注ぎ込んだりしていた。
彼女は
「お金で幸せは買えないなんて嘘だわ」
とある日つぶやく。
彼女はどこまで知っていたのだろうか?
どちらともとれるこの曖昧さが男を一層の深い絶望に突き落としているのだと思う。
この心理のリアリティに打ちのめされたのだ。
先日ユーリ・ノルンシュテインのドキュメンタリーがテレビで放送されていたが、私が大好きなこのロシアのアニメ作家が「創作で最も大切にしているのは実感だ」と語っているシーンは天啓のように思えた。
ノルンシュテインは今ゴーゴリの作品の映画化に取り組んでいるが、原作がある作品の映画化についてこんなことを語った。
「あるクリエータはゴーゴリの本を手に取って『ああ、これを映画化しよう。これなら簡単そうだ』とつぶやく。
また別の人物は『ゴーゴリの作品が心底好きだ。だからゴーゴリに取り組む』という。
この二人の姿勢は二人とも間違っている。
ゴーゴリの原作だから映画化するのではなく、ある日その本を読んで『ああこの感情はよく分かる』という実感を持った時にそのクリエータは作品に取り組む資格がある。」
その実感は言葉で表現できる物とは限らない、夕映えの水面の揺らぎとか、深い森の暗さとかそういうあらゆる事象を観察してそれが自分の心にどういう作用をもたらすのかを観察しなさいというのがユーリの教えだった。
我が意を得たりと思ったのは、私は優れた映画というのは(映画に限ったことではないと思うが)全てリアリティを持っていると常々考えていたからだ。
優れた映画はリアリティを持っている。
これは何も写実的な描写が良いと言っているのではない。
ある意味非現実的なシチュエーションにおいても、「もし本当にそういうことになったら人間ってそういうことを考えるんだろうな」というような共感が持てたものが良い映画だということだ。
逆に社会主義クソリアリズムのように現実を描写していても何も心に伝わってこない物は、リアリティがない映画なのだ。
パニック映画は、飛行機が急降下したり宇宙船が爆発したりするとすぐに人々がパニックになる。
しかし本当に重大な危機に直面していることが判ったら、人間というのは静かになるものじゃないだろうか?
そういう人間の心に対する深い洞察がリアリティを生むのだと思う。
この映画では地味ながらアナベラ・シオラの奥さん役が、深い人間の悲しみを湛えているし何も言わないが全て知っているかもしれないという奥さんの沈黙に、実は男には一番深い戦慄を感じてしまうのだ。
この奥さんは何を考えていたのだろうか?
どうなったのだろうか?
この奥さんは男をどう見ていたのだろうか?
そういうことがいつまでも深く心に突き刺さってしまう。
一見の価値がある映画だと思う。