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スターウォーズ エピソード2 クローンの攻撃
監督 ジョージ・ルーカス
キャスト ユアン・マクレガー、ナタリー・ポートマン
ルーカスという人は本当に映画監督という部類に入れる人なんだろうかという疑問をこの映画を見ていて思い出した。それと同じ疑問を30年近く前、スターウォーズシリーズの第1作を封切館で見た時に思った。
第1作はキューブリックの映画の特撮を担当したドルトン・トランブルが特撮スタッフに加わったために、その技法は大いにキューブリックの遺産で作られていた。
ルーカスのオリジナルといえば、ウエザリング(古びたイメージを出すためにわざと汚すこと)を施した模型や、乗り物がリアルだということくらいで、さんざん旧弊なSFのバカパターンと揶揄されたスペースオペラを結局この監督は映画でやってみたかったんだなという印象しか残らなかった。
しかし虚仮の一念というか30年間で6作揃ってみるとルーカスがなんとなく思い描いていた物が見えてきたのでちょっとこの映画について書きたくなった。
ルーカスという人が希代の名監督か、ただの商売上手かという議論についてはいろいろあると思う。この監督は特撮にばかり力が入って、役者の芝居になんか全く興味がないという指摘も当たっているかもしれない。
でもエピソード4ー5ー6ー1ー2と公開順に見てきた印象をいうと、この映画の面白さはゲテモノSF的な珍しさだけで無いと思うようにはなってきた。
この映画を見ながらしきりに連想したのは「火星年代記」というSF映画だ。
このキッチュな映画はマニアには絶大な支持を得ながらも一般的には「映画として評価できるシロ物なのか」という捉え方をされている。
しかし5時間もの上映時間の間に火星の想像上の数千年に渡る歴史を、ハイラインの原作に忠実に描き出したこれも虚仮の一念岩をも通すような映画だ。
しかもこの原作は「ローマ帝国興亡史」をベースにしている。
そうだ、スターウォーズも「ローマ帝国興亡史」がベースになっているのだとしたら全て合点がいった。
共和制を信条にする共和主義者と帝国主義者がせめぎあっている。
そこに共和主義を維持しつつ帝国主義者とのパワーバランスを主張する「分離主義者」が現れる。彼等のイデオロギーは同じはずなのに結局この分派活動によって共和主義は滅亡する。
共和主義者たちが、分離主義者たちと戦うために創設した軍隊こそクローン軍で、その行進のシーンにはあの懐かしい「帝国軍のテーマ曲」が流れる。
つまりこの共和国を守ろうとした軍の創設こそ軍国主義の始まりであり、これがやがて帝国軍の元になるという筋立てでは無いだろうか。
そう思うとこの映画は政治史についても非常に深く考察された映画だなという気がしてきた。
このアイロニーはかつてのワイマール共和国が崩壊してナチスドイツへと変ぼうしていくプロセスを連想させた。
そして旧シリーズではその滅びたはずの共和主義が血統を元にした貴族的結合によって復活する。
これはまさに「ローマ帝国興亡史」だなと例の行進のシーンを見て思った。
このオビワンとアナキンの交流を見ていると、旧シリーズのつじつまが合わなかったところが全く別の陰影で見えてくる。
例えばエピソード4で、ルーク・スカイウォーカーと出会ったオビワンはなぜ
「君の父親は優秀なジェダイだったが、ダースベイダーという男に殺されてしまった」
等という見え透いた嘘をついたのか?
オビワンは「フォースの力」でルークとベイダーがやがて出会うことも解っていたのではないか?
会えばそんな嘘はすぐにばれるに決まっている。なのにこんな嘘をついたのはなぜか?
それはオビワンがその才能を愛した一番弟子が自分から悪の道に入ってしまったとは口が裂けても言いたくなかったからに違いない。だからこんなすぐにばれる嘘をついたのだ。
それほど彼にとって一番弟子がダースベイダーになってしまったということは、その生涯のうちでも痛恨の出来事だったのだ。
そうだとすると他の物事も全て別の陰影で見えてくる。
オビワンはヨーダの覚えもめでたいもっとも優れたジェダイだったはずなのに、ルークが訪ねるまでは名前も棄てて辺境の砂漠の惑星で隠とん生活を何十年も続けていた。
この隠とん生活もその理由は彼の心の傷、つまりもっとも愛した一番弟子をしくじったという痛恨事こそが原因だったのではないだろうか。
オビワンは何十年も続けた隠とん生活を気楽に棄ててルークたちとともに共和国のための戦いに加わったように見えた。初めて見た時にはこのオビワンの腰の軽さが「何十年も隠とん生活をしてきた賢人の割には軽いな」と思ったのだが、シリーズ通してみればそうではなかったということが解る。
オビワンはレーア姫のメッセージを見て、気楽に戦う決意をしたのではなく、目の前に現れたのがかつての自分が失った一番弟子の息子だったから動く決心をしたのだ。
だったら、ダースベイダーとの戦いで命を投げ出して、ルークたちを守った意味も最初に見た時よりもずっと深く見えるのだ。
またこの物語は共和主義の限界と帝国主義の崩壊を描き出すとともに、道を誤ったアナキン・スカイウォーカーとその贖罪を果たすルーク・スカイウォーカーの親子の物語なのだ。
そう考えるとこの物語はエピソード1からエピソード6まで完璧につじつまが合っている。
その全体像が初めて見える映画がこのエピソード2なのだ。
例によってCGに頼り過ぎの映画制作には疑問を感じる。
それでこの映画は大いに価値を下げてしまったように感じる。
しかしそれでもこの映画を通してストーリィが完全に出来上がっているというのはなかなか無いことなのでそれだけでも味があると思うのだ。
サーガというのは「英雄伝」と訳されることが多いが実際には「悲伝」というかオデッセイアが試練を乗り越えたが結局故郷に帰ってみるとすべてを失っていたようなそういう物語をサーガという。
そういう意味では、この物語は父の過ちを息子が購う物語で最後はハッピーエンドになることを私達は知っているのだが、そのハッピーエンドは父の世代に実現できなかったのかという意味では立派な悲劇なのだ。
弔意をもってエピソード3は見にいかないといけないだろう。