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デイ・アフター・トゥモロー


監督 ローランド・エメリッヒ
キャスト デニス・クウェイド、イアン・ホルム

この映画のことを書きたくなったのはこのドイツ人の監督のことを書きたくなったからだ。

今のハリウッドの売れっ子監督は生粋のアメリカ人ってあまり居なくって、リドリー・スコット(エイリアン、ブラックホークダウン)ジョン・スコット(トップガン)のイギリス人兄弟、オランダ人のポール・バーホーベン(ロボコップ、氷の微笑、スターシップトゥルーパーズ)、フランス人のリュック・ベッソン(レオン)、ドイツ人のウォルフガング・ペダーセン(シークレットサービス、アウトブレーク、ネバーエンディングストーリィ)など外国人の監督ばかりが気を吐いている感じだ。

もともとアメリカは純血主義なんて考え方の無い国だが、それにしても映画の世界はアメリカ人は完全に創造的な物を失って、外国からせっせとそういう人材を仕入れているように思ってしまう。
そのことは良いのだが、そのウォルフガング・ペダーセンと同じくドイツから仕込まれたこのローランド・エメリッヒという監督さんはちょっと不思議なテイストを持った人だと思う。

そのラインナップと寸評を書いてみると、

ユニバーサルソルジャー

戦争で国民に犠牲を強いることを恐れた某超大国ポピュラリズム政府は、戦死者の遺体をリサイクルして最強の兵士を作ることに成功、もはや犠牲を国民に強いることも無くなったかに見えたが、この生き返った遺体に消えたはずの生前の記憶が残っていたことから、この陰謀が暴かれるという本格SFとしてはなかなかスグレ物のテーマなのだが、後半は筋肉ムキムキ男の殴り合いで決着が付いてしまうという結局すごく頭の悪い映画になってしまった。


スターゲイト

古代エジプトの遺跡から出土した「門」は人類の誕生の秘密、そして人類を実はコントロールしていた未知の異星人の存在へと発見者たちを導く...とこれも本格SFのセンスオブワンダーの匂いがぷんぷんするスグレ物映画っぽい出だしなのだが、後半は特殊部隊と宇宙人のコンバットゲームでケリが付いてしまうという頭の悪い映画になってしまった。


インディペンデンスデイ

これまでの映画に出てくるUFOは皆直径がせいぜい10メートル程度のものでコソコソ来るというのがパターンだったが、この映画の宇宙人は月の半分の大きさの母船から発射されたニューヨーク市ほどの大きさの巨大な「小型船」で堂々と乗り付けてきて地球人を圧倒的な物量で蹂躙するというのがある意味説得力があるというか、これも実にSF的な意外感があってなかなか出だしは良いのだが、結局独立記念日の旗を掲げながらUFOに「カミカゼ」突撃するというマッチョな映画になってしまった。


ゴジラ

日本が生んだ「怪獣映画」の元祖である「ゴジラ」をアメリカで映画化するということで、白羽の矢が立ったのがSFヲタクらしいエメリッヒ監督だったが、エメリッヒはゴジラマニアであるにも拘らず日本のゴジラのようなこだわりを棄てて、ゴジラは迅速に動く肉食獣であるというどちらかというと生物学的な恐怖を盛り上げることに成功した。
しかし「魚が一杯だ」とか「ママが怒ってる」というたぐいの幼稚な台詞はなんとかしてほしいなぁ



なんとなくエメリッヒ監督を私がどう評価しているかお分かり頂けたろうか?
この監督さんはすごくいい味を持っている。特にSF的な発想ということに関しては、他のどの監督さんも持っていないような「正統派」な「センスオブワンダー」の感覚を持っている。
だからどの映画も前半の40分はすごく出来がいい。
「こういうSF映画を見たかったんだよ〜」といいたくなるようなワクワク感があるのだが、その感覚は必ず後半になると裏切られるという詰めの甘さをこの監督さんは持っている。
どうしてなんだろう?
すごくいい味を持っているのに。

上記にあげた作品が見る価値が無い駄作だということを言っているんじゃなくて、むしろすごい名作SFにもなった可能性があったのに惜しいことしたなぁという感じなのだ。是非見てもらいたい。

それでこのエメリッヒ監督の最近作がこの「デイ・アフター・トゥモロー」だ。
この作品もエメリッヒ君の過去の作品に劣らずSF的なしかけがしてある。
何よりも唸らされたのは「地球温暖化の影響に関する誤解」という点だ。
地球温暖化が進めば皆地球が暖かくなって日本も熱帯になるというような理解の仕方をしている。
だから「今よりクーラーの電気代がかさむかもしれない」という程度の危機感しか湧かないのだ。
しかし実際には温暖化は氷河期を呼び起こすトリガーになるという考え方が秀逸だ。

氷河期は数万年のサイクルで遅かれ早かれ必ずやってくる。今はたまたま間氷期という時代に入っているが、これがいつ終わって再び氷河期になるのかは誰にも分からない。
そのトリガーが温暖化によって引き起こされた極地点の氷の大量融解かもしれないという話は説得力がある。
またそれが1000年というスパンではなくわずか6週間という短いスパンで起こるというのも、あり得ないと思いつつもそういうことがあるかもしれないと思わされるストーリィ運びが工夫されている。
例えばシベリアのマンモスの化石が登場するが、このマンモスは化石というが実際には化石ではなく氷付けになっていた物で、しかも口と胃に同じ未消化の植物が発見されたことから、食事中に突然氷付けになったということが解っている。
どうしてそうなったのかが謎なのだが、この映画はその答えを提示している。

気象現象はゆっくりしたスピードで変化するように見えるが、ある臨界点を超えるとそこからは急激に変化のスピードが加速し等比級数的に変化が速くなるという話を聞いたことがある。
この映画を見ながら何となくその話を思い出した。

例によって多くの人々の人間ドラマを並列して追おうとして、しかしミミ・レダーのような丁寧なドラマ作りができないために結局どれも中途半端に終わっているという弱点もあるし、竜巻きや津波をCGで作ったまでは良かったが、オオカミまでCGで作ってしまうというCG頼みはもう止めてほしいという不満はあるものの、この映画はエメリッヒ作品にしては珍しく最後まで破たんしていない映画だと思う。

スコットランドでスコッチを酌み交わしながら人類の終焉を思うイアン・ホルム(この人はエイリアンで怪演していた人だ)のシーンは「渚にて」という古い映画を思い出してしまった。
いいシーンだったと思う。

興行成績では残念ながら上記4作品にはおよばなかったようだが、しかし出来はこれらの作品のなかでは一番いい映画なのでチェックしてみてほしい。














スターウォーズ エピソード2 クローンの攻撃


監督  ジョージ・ルーカス
キャスト ユアン・マクレガー、ナタリー・ポートマン

ルーカスという人は本当に映画監督という部類に入れる人なんだろうかという疑問をこの映画を見ていて思い出した。それと同じ疑問を30年近く前、スターウォーズシリーズの第1作を封切館で見た時に思った。
第1作はキューブリックの映画の特撮を担当したドルトン・トランブルが特撮スタッフに加わったために、その技法は大いにキューブリックの遺産で作られていた。

ルーカスのオリジナルといえば、ウエザリング(古びたイメージを出すためにわざと汚すこと)を施した模型や、乗り物がリアルだということくらいで、さんざん旧弊なSFのバカパターンと揶揄されたスペースオペラを結局この監督は映画でやってみたかったんだなという印象しか残らなかった。

しかし虚仮の一念というか30年間で6作揃ってみるとルーカスがなんとなく思い描いていた物が見えてきたのでちょっとこの映画について書きたくなった。
ルーカスという人が希代の名監督か、ただの商売上手かという議論についてはいろいろあると思う。この監督は特撮にばかり力が入って、役者の芝居になんか全く興味がないという指摘も当たっているかもしれない。
でもエピソード4ー5ー6ー1ー2と公開順に見てきた印象をいうと、この映画の面白さはゲテモノSF的な珍しさだけで無いと思うようにはなってきた。

この映画を見ながらしきりに連想したのは「火星年代記」というSF映画だ。
このキッチュな映画はマニアには絶大な支持を得ながらも一般的には「映画として評価できるシロ物なのか」という捉え方をされている。
しかし5時間もの上映時間の間に火星の想像上の数千年に渡る歴史を、ハイラインの原作に忠実に描き出したこれも虚仮の一念岩をも通すような映画だ。
しかもこの原作は「ローマ帝国興亡史」をベースにしている。
そうだ、スターウォーズも「ローマ帝国興亡史」がベースになっているのだとしたら全て合点がいった。

共和制を信条にする共和主義者と帝国主義者がせめぎあっている。
そこに共和主義を維持しつつ帝国主義者とのパワーバランスを主張する「分離主義者」が現れる。彼等のイデオロギーは同じはずなのに結局この分派活動によって共和主義は滅亡する。
共和主義者たちが、分離主義者たちと戦うために創設した軍隊こそクローン軍で、その行進のシーンにはあの懐かしい「帝国軍のテーマ曲」が流れる。
つまりこの共和国を守ろうとした軍の創設こそ軍国主義の始まりであり、これがやがて帝国軍の元になるという筋立てでは無いだろうか。

そう思うとこの映画は政治史についても非常に深く考察された映画だなという気がしてきた。 このアイロニーはかつてのワイマール共和国が崩壊してナチスドイツへと変ぼうしていくプロセスを連想させた。

そして旧シリーズではその滅びたはずの共和主義が血統を元にした貴族的結合によって復活する。
これはまさに「ローマ帝国興亡史」だなと例の行進のシーンを見て思った。


このオビワンとアナキンの交流を見ていると、旧シリーズのつじつまが合わなかったところが全く別の陰影で見えてくる。
例えばエピソード4で、ルーク・スカイウォーカーと出会ったオビワンはなぜ
「君の父親は優秀なジェダイだったが、ダースベイダーという男に殺されてしまった」
等という見え透いた嘘をついたのか?
オビワンは「フォースの力」でルークとベイダーがやがて出会うことも解っていたのではないか?
会えばそんな嘘はすぐにばれるに決まっている。なのにこんな嘘をついたのはなぜか?

それはオビワンがその才能を愛した一番弟子が自分から悪の道に入ってしまったとは口が裂けても言いたくなかったからに違いない。だからこんなすぐにばれる嘘をついたのだ。
それほど彼にとって一番弟子がダースベイダーになってしまったということは、その生涯のうちでも痛恨の出来事だったのだ。
そうだとすると他の物事も全て別の陰影で見えてくる。

オビワンはヨーダの覚えもめでたいもっとも優れたジェダイだったはずなのに、ルークが訪ねるまでは名前も棄てて辺境の砂漠の惑星で隠とん生活を何十年も続けていた。
この隠とん生活もその理由は彼の心の傷、つまりもっとも愛した一番弟子をしくじったという痛恨事こそが原因だったのではないだろうか。

オビワンは何十年も続けた隠とん生活を気楽に棄ててルークたちとともに共和国のための戦いに加わったように見えた。初めて見た時にはこのオビワンの腰の軽さが「何十年も隠とん生活をしてきた賢人の割には軽いな」と思ったのだが、シリーズ通してみればそうではなかったということが解る。

オビワンはレーア姫のメッセージを見て、気楽に戦う決意をしたのではなく、目の前に現れたのがかつての自分が失った一番弟子の息子だったから動く決心をしたのだ。
だったら、ダースベイダーとの戦いで命を投げ出して、ルークたちを守った意味も最初に見た時よりもずっと深く見えるのだ。

またこの物語は共和主義の限界と帝国主義の崩壊を描き出すとともに、道を誤ったアナキン・スカイウォーカーとその贖罪を果たすルーク・スカイウォーカーの親子の物語なのだ。

そう考えるとこの物語はエピソード1からエピソード6まで完璧につじつまが合っている。

その全体像が初めて見える映画がこのエピソード2なのだ。

例によってCGに頼り過ぎの映画制作には疑問を感じる。
それでこの映画は大いに価値を下げてしまったように感じる。
しかしそれでもこの映画を通してストーリィが完全に出来上がっているというのはなかなか無いことなのでそれだけでも味があると思うのだ。
サーガというのは「英雄伝」と訳されることが多いが実際には「悲伝」というかオデッセイアが試練を乗り越えたが結局故郷に帰ってみるとすべてを失っていたようなそういう物語をサーガという。
そういう意味では、この物語は父の過ちを息子が購う物語で最後はハッピーエンドになることを私達は知っているのだが、そのハッピーエンドは父の世代に実現できなかったのかという意味では立派な悲劇なのだ。

弔意をもってエピソード3は見にいかないといけないだろう。














マーシャル・ロー


監督  エドワード・ズウィック
キャスト デンゼル・ワシントン、ブルース・ウイリス

この映画を今初めて見たら、ああアルカイダのようなイスラム原理主義者のテロの恐怖を描いた映画だよね、とサラッと流してしまいそうだ。
ところがこの映画は9.11よりも前に作られた映画なのだということを考えると、このイマジネーションのリアリティには驚かされる。

9.11以前に見た人は、「こんな恐い世界もあり得るのかねぇ」と首を傾げて見たに違いない。
しかし9.11以降に初めて見た人は「今の時代を正確に描き出した映画だ」と思うに違いない。

冒頭の拉致されるイスラム高僧は明らかにオサマ・ビン・ラディンがモデルになっている。
ラディンは当時よりずっと以前からアメリカにとって脅威になっていたから、ここいらの描写はまぁ普通だろう。
しかし当時は誰でも「テロはエルサレムかヨルダンのアメリカ大使館が狙われるとか、そういう場所で起きるに違いない」と思っていた。
まさかニューヨークのど真ん中で多くの民間人を巻き添えにする大規模なテロが起きるというのは想像しにくかった。

だからこの映画にはフィクションとしての意外感と面白さがあったのだが、しかし9.11で実際にニューヨークのど真ん中で大規模テロが起きてしまった。この映画制作者はこのニュースを聞いてどう思っただろうか?
これでビデオが売れると喜んだだろうか?
それとも「この話の意外感が失われてしまった」と舌打ちしただろうか?


この物語のリアリティは、防ぎようの無い狂信主義者のテロの恐怖を描いただけでなく、テロをしかける側の心情もリアルに描いたことだ。
デンゼル・ワシントンのパートナーはヨルダン出身の移民で、イスラエルへの蜂起にも参加したことがあるという人物だ。彼とイラクのゲリラ組織の養成工作を経験したCIA職員の女性が、それぞれの立場からテロを仕掛ける「原理主義者」の心理を分析する。

しかしアメリカ人で「原理主義者」に同情的なCIA職員と、イスラムの敵味方を峻別する厳しさを知っているヨルダン人のパートナーの見方はことごとく対立するのが面白い。
この映画は単なる爆弾テロアクションではなく、平均的なアメリカ人が絶対理解できないであろうイスラムの世界を浮き彫りにした文明論というかそういう地平にまで踏み込んでいる。

ラスト近くで自爆テロをもくろむ犯人にこのCIA職員の女性が
「コーランには殺すなかれと書いてあるわ」
と説得しようとすると 
「俺に向かってコーランを語るな!」
叫ぶシーンにはアメリカに対する深い憎悪とそれに触れた絶望感がよく描かれている。
結局話し合えば理解しあえるなんていうきれいごとは幻想なのだ。
宗教と人種が違えば人間は他人を虫けらのように殺すことができる。ましてやそこに親族の仇をとるなんていう恩讐があれば、いくら言葉を尽くしても解りあうことなんか不可能なのだ。

解りあえない相手にはどう対処するべきか、その答えがタイトルのマーシャルロー(戒厳令)となる。結局全ての中東系の若者を一か所に拘束して、拷問で口を割らせる。だが、そういうことが行われない国家を守ることがそもそもの戦いの動機だったのでは無いか?
この流れは手段が目的を無意味化する過程がよく描かれている。
かつて周恩来は「目的が手段を浄化する」といった。
狙いが正しければプロセスには多少の不正があったとしても、許されるということだ。

しかし深い憎悪によってねじ曲げられたこの世界では、とりうる手段が目的を無意味にする。 そのことを端的に語ったのがラストのデンゼル・ワシントンの台詞だ。
ブルース・ウイリスに逮捕状を示しながら
「あなたには黙秘権がある。あなたには弁護士を雇う権利がある。そしてあなたには拷問されない権利も、理由無く殺されない権利もある。いずれも彼等兵士たちの父や祖父が血を流して勝ち取った権利だ。」
名台詞だと思う。

この映像化しにくい難しいテーマをこの映画は押さえるべきところを押さえてしかも、テンポ良く飽きさせないでラストまで見せてしまう。
良い映画だと思う。













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