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ブラックホークダウン
監督 リドリー・スコット
キャスト ジョシュ・ハートレット、ユアン・マクレガー
これはソマリア紛争で実際にあった事件を描いた映画だ。
アメリカという国は、好き勝手に世界中で石油などの利権を漁って戦争をしているという印象で理解されているし、ネット上にはそういうアメリカ陰謀説なんてごろごろ転がっているが事実はそういうオタクの歪んだ世界観よりももっと奇妙だというのがこのソマリア戦争だったと思う。
この映画を見る上でそういうことを知っているともっと面白く見られると思うが、ソマリア紛争ももう12年も昔のことになって風化し始めているのでちょっとおさらいする。
ソマリア紛争は大体当時から「奇妙な戦争」といわれていた。
そもそもは戦後の独立時に成立した独裁恐怖政権を打ち倒したクーデター部隊の権力闘争が、部族争いを背景に全国的な内戦になったというお定まりのパターンの戦争なのだが、それが数十万人の市民が餓死するという深刻な事態になり国連も看過できなくなって平和維持部隊を派遣するというのが、この物語の背景だ。
平和維持部隊というのはカンボジアでもそうだが、それまでは紛争が終了して和平会談が成立した後の協定が遵守されているか監視する役目がその目的だった。
が、このソマリアでは全くの紛争のさなかに軍事力で強制的に紛争を終結させるということに国連はトライした。
というよりも時のアメリカのクリントン政権は、国連を使ってそういう「世界の警察」という活動が本当にできるのかどうか試してみたかった。だからこのソマリアという石油が出てくるわけでもなければ、ウランが出てくるわけでもない、アメリカ資本のルーツとも全く関係ない、要するにアメリカにとって全く何の利害もない国にのべ数万の国連部隊を駐留させるということをやらかしたわけだ。
この戦争が「奇妙な」といわれたのは、まず出だしから「異様な光景だった」からだ。
その出だしは海兵隊員による敵前強襲上陸だったのだが、その時に海岸線で海兵隊を待ち構えていたのはアイディード派の守備隊員ではなくCNNやCBSなどのテレビカメラの砲列だった。
この上陸作戦は世界で初めてテレビカメラによって「正面から」撮影された実戦攻撃となるという「奇妙な」名誉を授かった。
もっともクリントン政権がこの「実験」にソマリアを選んだのはソマリアが規模的に小さくてテストには最適だと考えたからだ。ソマリアのような小国は米軍の圧倒的な物量でどうにでもできるだろうし、万一失敗してもなんら利害が無いので失うものが無い。
ところがこのぬるいクリントンPKOが地獄を見る事件が起きる。
それがこの映画に描かれた「ブラックホーク撃墜事件」だった。
そのことの起こりもこの映画で詳しく描かれているが、そもそもはアイディード派の幹部の会合の情報をつかんだ米軍のレンジャー部隊とデルタフォース(陸軍特殊部隊)がこの会合を急襲してその幹部を拉致してくるという30分で終了するような作戦だった。
この戦争がもうひとつ「奇妙だ」といわれているのが、この攻撃が民兵シンパの市民によってアイディード派に筒抜けになっていたことだ。しかも市民は携帯電話を使ってこの情報を送っていた。
かつての軍の諜報活動というのは、強行偵察部隊で堂々と偵察したり、ハイテク兵器を使ってスパイ戦をしたりということに相場が決まっていたが、この戦争では普通の市民が、普通の民生機の携帯電話を使って情報を送っていた。その様子も良く描かれている。
ハンビーと呼ばれる装甲ジープとブラックホークと呼ばれる輸送兼用の攻撃型ヘリコプターそれぞれ十数台で現地に降下して、目標の人物を拉致して離脱するというだけの作戦だったので米軍は単独でこれを実行した。
隊員たちにも
「どうせ守っているのはアイディードの民兵だけだし、連中はまともに射撃もできないので石を投げてくる」
というなめきった雰囲気がみなぎっている。
ところが実際に降下作戦を実施している最中に、隊員の一人がヘリコプターから落下するという事故が起こる。その負傷者の回収に手間どるうちに数百人もの民兵に突入部隊は包囲され、その近接支援をしていたヘリコプターが民兵の放ったロケットランチャーに撃墜されるという事態になってしまう。
さらにこの墜落ヘリを支援していたもう一機のヘリが撃墜され、地上部隊は市内数カ所で寸断されるという泥沼に陥ってしまった。
隊員一人が落下するという想定外の些細な事故で歯車が大きく狂ってしまい、全部隊を危機にさらしてしまった。このヘリ墜落のコードがタイトルのブラックホークダウン「黒鷹は墜ちた」ということになる。
結局この事件は15時間以上も続いた戦闘の挙げ句、米軍、ソマリア兵合わせて1000人以上の死者を出すという結末になる。
しかも武装ヘリの搭乗員の死体の衣服を市民がはぎ取ってなぶりものにするというテレビ映像が世界に配信されてしまい、時のクリントン政権は危機に陥ってしまう。
結局クリントン政権はこれを契機にソマリアから撤退、国連の平和維持活動にも急激に熱意を失ってしまい、これ以降の国連とアメリカとの冷たい関係の原点になってしまう。
そういう流れを知ってみるとこの映画には深い意味がある。
この映画には実は個性的な俳優が多く出演しているのだが、戦闘シーンに入ってしまうともう俳優が誰だったかがどうでも良くなってしまうくらい激しい戦闘が続く。
スピルバーグの「プライベートライアン」以来戦争映画でCGや特殊メークも駆使して凄まじい戦闘シーンを描くのがこの頃はやりになっていたが、この映画は市街戦でしかも市民戦争に正規部隊が突入することがいかに困難かをリアルに描いている。
早い話弾は前から飛んでくるとは限らない。文字どおり四方八方から飛んでくるし民兵は市民と同じ格好をしている。近接支援のために降下してきたヘリコプターに向けてマーケットからRPGロケット弾が浴びせかけられる。しかもソマリア兵は死を恐れているふうが全くなく、撃たれても撃たれても次から次へと銃をふりかざして突入してくる。
そういう相手に対してはいくら重装備をしていても、ハイテク兵器をいくら持っていても無傷ではいられないという事がよく分かる。
リドリー・スコットは「G.I.ジェーン」でちょっとミソをつけてしまい「マッチョで愛国的な映画を作る外国人監督」というレッテルを貼られている。
しかしこの映画は米軍の全面協力を得ているので多少のリップサービスはあるものの、アメリカヨイショの反動的映画として片付けるのはちょっと違うように思う。
いろいろなことがリアルに描かれていて、例えば「デルタ」と「レンジャー」の違いなんかもちゃんと描かれているのが面白い。どちらもニュース原稿的な用語では「米軍特殊部隊」という言い方になるが、一般兵科の訓練兵と違って職業軍人としてのプロフェッショナルな教育は受けているが正規兵であるレンジャーに対して、デルタは3軍からも独立し銃器のエキスパートであり、指揮命令系統から独立して、一人一人が戦況を判断して行動するように訓練されている。
最初の
「基地内では銃に安全装置をかけておけ」
と注意するレンジャーの将校に対して
「俺の安全装置はこれだ」
と自分の指を差し出してみせるデルタ隊員のシーンに始まって、実戦でも指示待ちをするレンジャーの指揮官に対してデルタ隊員は、指示を待たずに勝手に退路を切り開くというシーンがある。
跳ねっ返りのデルタの隊員に向かってレンジャーの将校が
「デルタだからって好き勝手して良いわけじゃないぞ。ラスト5ヤードではオレたちレンジャーの力が必要になる」
とすごむ下りがある。
これはアメリカンフットボールのことを言っているのだ。
最初の10ヤードはクォーターバックとワイドレシーバーの鮮やかなパスワークで距離を稼げる。
しかしゴール前の5ヤードまできたら、そういう作戦だけでは勝てない。最後の5ヤードではフォワードもラインバッカーも全員のチームワークがないとタッチダウンは取れない。
デルタはワイドレシーバーだが、レンジャーはフォーメーションを組む全員だというたとえだ。
リドリー・スコット自身俳優にもデルタに体験入隊をさせたり、そのあたりのリアリズムにはかなり気を使っていたようだ。
このシナリオもそういう「レンジャー」や「デルタ」の隊員たちのインタビューから作り出したもののようで
「英雄になりたいから戦うんじゃない、仲間がいるから戦うだけだ」
というラストのデルタの独白にはこの戦争の政治的な意味を越えた、その現場にいた当事者の実感が盛り込まれているように思う。
それが分かるのは臨時にチョーク(小隊)指揮官に抜てきされたが、部下が今回の落下事件を起こしてしまい部隊全体を危機に陥れてしまったレンジャーの若い指揮官に向かってデルタの一人がいう言葉が示唆的だ。
「ああすればよかった、こうすればよかったっていうのは何の意味もない。そんなことは終わってからいくらでも悩む時間があるぜ」
戦争映画というのは戦闘シーンの迫力ばかりに力点が置かれて、そこにいた人たちの実感がどうだったのかが描かれていない「雑な」作品が多いのは事実だが、この映画の戦闘シーンは「痛そう」な実感が伝わってくるし、市街戦に放り込まれた兵士たちの心境がちゃんと描かれている。
さすがリドリー・スコットだなと思わせる映画にはなっていると思う。
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