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ローマの休日


監督 ウイリアム・ワイラー
キャスト オードリィ・ヘップバーン、グレゴリー・ぺック

この映画は私が生まれる前にヒットした映画なので、勿論リアルタイムに見たわけではないのだが先日自宅のビデオを整理していたら、これが出てきてDVDに整理しながら触りだけ見ようと思っていたら結局最後まで見てしまった。

言わずもがなのオードリィ・ヘップバーンの魅力爆発の映画だ。
オードリィ・ヘップバーンという人は実はナチスの圧政から逃れた亡命一家の娘という女優さんで、そういうかげりを感じさせない笑顔なのだがそのせいか英語はネイティブスピーカーなら明らかに分かるという訛った英語をしゃべっている。
だからこの映画では「ヨーロッパの小国の王女様」という役どころが似合っているし、「マイフェアレディー」ではやはり田舎出の訛った女の子が英語の発音から練習して、上流階級に入る訓練をするという話がピッタリだったわけだ。

(「マイフェアレディー」では英語の発音訓練をするためにオードリィは
「スペインの雨は主に平地に降る」
The rain in Spain stays mainly in the plain.
という文例を稽古するわけだが、この文例は「2001年宇宙の旅」というアーサー・クラークの小説にも登場する。

ボーマン船長によって接続を切られるHALコンピュータがだんだん意識がもうろうとしていくなか、最初はボーマンに自分の任務の重要性を説き切断をやめるよう哀願しいるが、突然
「こんにちは、先生。今日は何のレッスンをしますか?」
と話しはじめ、最後は
「スペインの雨は主に平地に降る」
という例文を繰り返して停止するというシーンがある。
これは記憶が失われていく様子をあらわしていて興味深い。
記憶野が剥がされていって、だんだん最近の複雑な記憶から失われていき、最後には一番最初に練習した発音の稽古だけが記憶に残ったということだろう。
キューブリックの映画では、デイジーの歌を歌いながら停止していたが、映画ファンにはこちらの方が納得できる。
ちょっと余談)

よく見ると「ローマの休日」はシンデレラが話のベースになっていることに気がつく。
シンデレラは、継母にいじめられ台所の暗がりに閉じ込められている「灰かぶり姫」(サンドリヨン)が魔法の力でガラスの靴を履いて一夜限りの舞踏会に出てそこで脱げた靴がきっかけで王子と再び出会うという有名な童話だが、この映画は逆に「王族の義務」という牢獄に閉じ込められた姫が庶民の生活に憧れて、一夜限りの自由なバカンスを楽しむという話だった。
シンデレラへの暗喩は、冒頭の舞踏会でオードリィの靴が脱げるシーンではっきり示される。

そうだ、これはおとなの童話なんだよね。
庶民は皆王族のような豪華な生活に憧れるが、その豪華な生活をしている可憐な王女は庶民の生活に憧れていて、その一夜限りのバカンスでトップ屋みたいなどちらかというとあまり上品とはいえないようなジャーナリストと知り合いになる。

そういう王女と出会ったらこの下衆な男も心洗われてしまうという、男が見ても女が見ても感情移入できるようにこの映画は作られている。
なかなか良くできた映画だなぁ。

男は勿論王女をお慰めしようなんて動機ではなく、これでイッパツ大きなネタをスクープして大金稼いでやろうという非常に解りやすいくらいに不純な動機で王女に近づく。
しかし純真な王女に心撃たれて、結局スクープは握りつぶしてしまう。
しかし女性客もこの恋に感情移入できるように、グレゴリー・ぺック演じるこの下衆男はとても男前だし、実は王女の可憐さに心惹かれてしまう優しい男でもあるという設定にしてある。

そして最後の共同記者会見のシーンになる。

下衆男は自分の記事のトップを飾るはずだった、ギターを振りかぶって警官に殴り掛かる王女の写真を
「弊紙よりのささやかなプレゼントです。」
といって王女に手渡す。
この写真は王女にとって一生の宝になるに違いない。

記者団との質疑応答の時に
「多くの国を歴訪してこられましたが、一番気に入ったのはどこの国ですか?」
という質問が投げられる。

こういう時の皇族の答え方というのは実はちゃんと決まっているのだ。
もし個人的に気に入ったところがあったとしても、その名前を挙げると他の国から悪い印象をもたれかねない。なので皇族は決まった答えをするように訓練されている。
このオードリィ王女もその決まりきった答えをした。
「それぞれの国にその良さがあり、今回の訪問でもどの国も大変印象深いものがありました。」

しかし次の一言は押さえきれなかったに違いない。

「でも、一番気に入ったのはローマです!」

この言葉は勿論王族の会見としては異例のコメントなので、従者たちは一斉に驚いた顔をして王女の顔を覗き込む。
しかしグレゴリー演じるトップ屋とその友人のカメラマンの二人だけにはこのコメントの意味が分かったというしゃれたエンディングだった。


この映画ではオードリィの衣装をジバンシィが担当したことでも話題になった。
ジバンシィが一流ブランドとして広く知られるきっかけもこの映画だった。

またこの映画ではオードリィは小柄な華奢な女性に見える。
しかし実際のオードリィはかなりの大女で、晩年の「華麗なる相続人」という映画を見た時には「オードリィ・ヘップバーンってでかいんだなぁ」と思ったのが印象に残っている。
相手役のグレゴリー・ぺックは確か1メートル90センチ台の長身で、それでオードリィが小柄に見えたのだ。そう見せるカメラアングル(全体的に俯瞰ぎみあるいは、煽りぎみの構図で撮影されている)にも工夫がある。
グレゴリー・ぺックを相手役にもってきたのもそうだし、カメラワークもそうだが実は緻密に計算された映画なのだが、そういう仕組まれた感が無いのはやはりオードリィ・ヘップバーンの魅力ということなのだろうか。














ベルリン・天使の詩 /シティオブエンジェル


(ベルリン・天使の詩)
監督 ヴィム・ヴェンダース
キャスト ブルーノ・ガンツ、ピーター・フォーク

(シティオブエンジェル)
監督 ブラッド・シルバーリング
キャスト ニコラス・ケイジ、メグ・ライアン

西洋の宗教では「天使」は救済の象徴として、フラスコ画をはじめあらゆるところに現れる。 天使は翼が2枚のヒラ天使から8枚ある大天使までいろいろあるが、総体に色白な男性とも女性ともつかないような清らかな若者の姿をしている。

しかし天使が「救済の象徴」として現れるのなら「天使の救済は誰がしてくれるのだ?」という知的な遊戯というようなところから生まれてきたようなテーマの映画がこの2作だ。
というよりも「ベルリン・天使の詩」がそういうテーマを扱いながらヨーロッパ的な難解な映画になってしまったので、それをベースにリメイクしたアメリカ映画が「シティオブエンジェル」ということになるんじゃないだろうか。
この関係はタルコフスキーの「惑星ソラリス」とソダーバーグの「ソラリス」の関係とも似ているかもしれない。
(ただしリメイクの「シティオブエンジェル」を見たヴィム・ヴェンダースは見事な作品だと褒めたたえたというところがちょっと違うが)


「ベルリン・天使の詩」では天使はくたびれた中年男の姿をしている。
天使は高い塔の上を好む。
そこから下に広がるあらゆる人々の人生を俯瞰している。人間の考えていることがまるでラジオを聴くかのように全て聞き取れてしまうのだ。
しかしこの天使はもうこうやって何千年も人間たちの生き様を俯瞰してきた。
そしてそのことにもうすっかり疲れ果ててしまったのだ。
しかし彼等には終わりが無い。その塔から飛び下りても死ねるわけでもない。
天使の眼から見た世界が全てグレーに沈んだモノクロの映像になっているのが象徴的だ。

そんななかアメリカからやってきた映画俳優と出会う。彼は天使の存在を感じることができるし天使の声が聞こえるという。なぜなら彼は元天使だったが、翼を棄てて人間になったのだという。
この事にかすかに希望を感じた天使は、今度は「人間になる」という見方で人間世界を彷徨してみる。
しかし結局そこには「救済」は感じられなかったというストーリィだった。
このヨーロッパ的な晦渋なトーンが好きだという人もいるし、「これだからヨーロッパ映画はわけが解らん」という人もいるだろう。

もし天使というものが本当にあって、彼等の感覚が我々人間とあまり変わらないのだとしたら、確かにこの映画の主人公や元天使のように「底が知れない深い疲労感」に捕われてしまうに違いない。
マラソンは42.195キロ走ればゴールがあると知っているから、我慢して走っていられるのだ。
ゴールは無い、永遠に走り続けなければならないと言われたら多分10キロも我慢できないだろう。
その疲れきった時に出会ったのが「ゴールの場所を知っている男」だった。

しかしその男に触発されてゴールと思っていた人間世界をもう一度しげしげと見つめ直してみたら「これはゴールと言えるのか?」という疑問に捕われてしまったということなのかもしれない。
その意味ではこの映画は非現実的な話を扱っているのだが、その意識の流れはとてもリアルなのかも知れない。

この映画には町で見かけた大道芸の女性への淡い恋の物語がからんでいる。
だから、人間になろうと決意した動機はその恋のためだとさらりと独白で言ってのける。しかし結局望みが叶って人間になっても、その恋への執着は驚くほど淡い。
主人公も淡白だし、この映画のテーマも結局そういうことが重要なのではなく、それはきっかけに過ぎず、ヴェンダースの天使の救済は「一杯のコーヒーの温かさに喜びを感じる」というようなささやかなことだった。
しかしこういう事じゃないだろうか。我々はそれを当たり前のことだと思っているから、そのことになんの有り難さも感じないが実はそういうものが手に入る、そういうことを感じることができるというのはすばらしいことなのかも知れない。
ヴェンダースの天使はそういう感覚を喚起させてくれる得難い映画だったと思う。


かたやニコラス・ケイジの天使はどうかというと、この映画も私にはかなりの御気に入りになっている。

ケイジ扮する天使は永遠の生命を持つ天使という身分に疲れ果てている。
この設定はヴェンダースと同じだが、こちらはもっと直接的に人間の悲しみに触れる。
急病で死んだ少女をお迎えにいく。
その時に死んだ少女の手を取って
「さぁ、行こう」
と声をかける。
少女は自分の亡骸にすがりついて泣きふせる母親の姿を見て、淡々と質問する。
「ママも一緒に行くの?」
「いや、ママは行かない」
「でも私がいなくなるとママが寂しがるわ」
ケイジ扮する天使は無言でうなずく。
この静けさはなんなのだろう?
少女は幼さに不釣り合いなほど諦観している。泣き叫んだりしないし、自分が死んだというのに母親が寂しがるという心配をしている。
そしてそれを見守る天使は悲しげに微笑むことしかできない。

この冒頭のシーンに実はこの映画のテーマが集約されていると思う。
一見メグ・ライアンとのラブストーリィのように見えるが、その恋は成就したとたんに失われる。
そして後には永遠の生を失った男が残っただけだ。
しかしこの男は天使の存在を感じながら「生」を肯定して生きていく。

渚に静かにたたずむ黒服の天使たちのシーンが印象的だ。

ニコラス・ケイジという役者のよさが出た映画としてはこの映画はコーエン兄弟の「赤ちゃん泥棒」と双璧だと思う。
ニコラス・ケイジは最近では「コンエアー」や「ザ・ロック」というようなアクション映画に出て「マッチョなヒーロー」役なんかもやったりして、ある意味芸域の広い役者さんなんだけど、このマッチョな役ばかりが評価されて最近ではマッチョな役者というイメージになってしまっているのかも知れない。
しかしこの役者さんは実は「赤ちゃん泥棒」のような情けない男の役やこの天使役のように「深い悲しみに捕われた男」という役をやらせればピカイチなのだ。

そういう意味ではこのキャスティングは良いセンスだと思う。
そのベースにはヴェンダースの「天使とは本当は疲れた中年男の姿をしている」という斬新な設定が活きている。
どちらも秀作だと思う。














ブラックホークダウン


監督  リドリー・スコット
キャスト ジョシュ・ハートレット、ユアン・マクレガー

これはソマリア紛争で実際にあった事件を描いた映画だ。
アメリカという国は、好き勝手に世界中で石油などの利権を漁って戦争をしているという印象で理解されているし、ネット上にはそういうアメリカ陰謀説なんてごろごろ転がっているが事実はそういうオタクの歪んだ世界観よりももっと奇妙だというのがこのソマリア戦争だったと思う。

この映画を見る上でそういうことを知っているともっと面白く見られると思うが、ソマリア紛争ももう12年も昔のことになって風化し始めているのでちょっとおさらいする。

ソマリア紛争は大体当時から「奇妙な戦争」といわれていた。
そもそもは戦後の独立時に成立した独裁恐怖政権を打ち倒したクーデター部隊の権力闘争が、部族争いを背景に全国的な内戦になったというお定まりのパターンの戦争なのだが、それが数十万人の市民が餓死するという深刻な事態になり国連も看過できなくなって平和維持部隊を派遣するというのが、この物語の背景だ。

平和維持部隊というのはカンボジアでもそうだが、それまでは紛争が終了して和平会談が成立した後の協定が遵守されているか監視する役目がその目的だった。
が、このソマリアでは全くの紛争のさなかに軍事力で強制的に紛争を終結させるということに国連はトライした。
というよりも時のアメリカのクリントン政権は、国連を使ってそういう「世界の警察」という活動が本当にできるのかどうか試してみたかった。だからこのソマリアという石油が出てくるわけでもなければ、ウランが出てくるわけでもない、アメリカ資本のルーツとも全く関係ない、要するにアメリカにとって全く何の利害もない国にのべ数万の国連部隊を駐留させるということをやらかしたわけだ。

この戦争が「奇妙な」といわれたのは、まず出だしから「異様な光景だった」からだ。
その出だしは海兵隊員による敵前強襲上陸だったのだが、その時に海岸線で海兵隊を待ち構えていたのはアイディード派の守備隊員ではなくCNNやCBSなどのテレビカメラの砲列だった。
この上陸作戦は世界で初めてテレビカメラによって「正面から」撮影された実戦攻撃となるという「奇妙な」名誉を授かった。

もっともクリントン政権がこの「実験」にソマリアを選んだのはソマリアが規模的に小さくてテストには最適だと考えたからだ。ソマリアのような小国は米軍の圧倒的な物量でどうにでもできるだろうし、万一失敗してもなんら利害が無いので失うものが無い。

ところがこのぬるいクリントンPKOが地獄を見る事件が起きる。

それがこの映画に描かれた「ブラックホーク撃墜事件」だった。
そのことの起こりもこの映画で詳しく描かれているが、そもそもはアイディード派の幹部の会合の情報をつかんだ米軍のレンジャー部隊とデルタフォース(陸軍特殊部隊)がこの会合を急襲してその幹部を拉致してくるという30分で終了するような作戦だった。

この戦争がもうひとつ「奇妙だ」といわれているのが、この攻撃が民兵シンパの市民によってアイディード派に筒抜けになっていたことだ。しかも市民は携帯電話を使ってこの情報を送っていた。
かつての軍の諜報活動というのは、強行偵察部隊で堂々と偵察したり、ハイテク兵器を使ってスパイ戦をしたりということに相場が決まっていたが、この戦争では普通の市民が、普通の民生機の携帯電話を使って情報を送っていた。その様子も良く描かれている。

ハンビーと呼ばれる装甲ジープとブラックホークと呼ばれる輸送兼用の攻撃型ヘリコプターそれぞれ十数台で現地に降下して、目標の人物を拉致して離脱するというだけの作戦だったので米軍は単独でこれを実行した。
隊員たちにも
「どうせ守っているのはアイディードの民兵だけだし、連中はまともに射撃もできないので石を投げてくる」
というなめきった雰囲気がみなぎっている。

ところが実際に降下作戦を実施している最中に、隊員の一人がヘリコプターから落下するという事故が起こる。その負傷者の回収に手間どるうちに数百人もの民兵に突入部隊は包囲され、その近接支援をしていたヘリコプターが民兵の放ったロケットランチャーに撃墜されるという事態になってしまう。
さらにこの墜落ヘリを支援していたもう一機のヘリが撃墜され、地上部隊は市内数カ所で寸断されるという泥沼に陥ってしまった。
隊員一人が落下するという想定外の些細な事故で歯車が大きく狂ってしまい、全部隊を危機にさらしてしまった。このヘリ墜落のコードがタイトルのブラックホークダウン「黒鷹は墜ちた」ということになる。

結局この事件は15時間以上も続いた戦闘の挙げ句、米軍、ソマリア兵合わせて1000人以上の死者を出すという結末になる。
しかも武装ヘリの搭乗員の死体の衣服を市民がはぎ取ってなぶりものにするというテレビ映像が世界に配信されてしまい、時のクリントン政権は危機に陥ってしまう。
結局クリントン政権はこれを契機にソマリアから撤退、国連の平和維持活動にも急激に熱意を失ってしまい、これ以降の国連とアメリカとの冷たい関係の原点になってしまう。

そういう流れを知ってみるとこの映画には深い意味がある。


この映画には実は個性的な俳優が多く出演しているのだが、戦闘シーンに入ってしまうともう俳優が誰だったかがどうでも良くなってしまうくらい激しい戦闘が続く。
スピルバーグの「プライベートライアン」以来戦争映画でCGや特殊メークも駆使して凄まじい戦闘シーンを描くのがこの頃はやりになっていたが、この映画は市街戦でしかも市民戦争に正規部隊が突入することがいかに困難かをリアルに描いている。

早い話弾は前から飛んでくるとは限らない。文字どおり四方八方から飛んでくるし民兵は市民と同じ格好をしている。近接支援のために降下してきたヘリコプターに向けてマーケットからRPGロケット弾が浴びせかけられる。しかもソマリア兵は死を恐れているふうが全くなく、撃たれても撃たれても次から次へと銃をふりかざして突入してくる。

そういう相手に対してはいくら重装備をしていても、ハイテク兵器をいくら持っていても無傷ではいられないという事がよく分かる。

リドリー・スコットは「G.I.ジェーン」でちょっとミソをつけてしまい「マッチョで愛国的な映画を作る外国人監督」というレッテルを貼られている。
しかしこの映画は米軍の全面協力を得ているので多少のリップサービスはあるものの、アメリカヨイショの反動的映画として片付けるのはちょっと違うように思う。

いろいろなことがリアルに描かれていて、例えば「デルタ」と「レンジャー」の違いなんかもちゃんと描かれているのが面白い。どちらもニュース原稿的な用語では「米軍特殊部隊」という言い方になるが、一般兵科の訓練兵と違って職業軍人としてのプロフェッショナルな教育は受けているが正規兵であるレンジャーに対して、デルタは3軍からも独立し銃器のエキスパートであり、指揮命令系統から独立して、一人一人が戦況を判断して行動するように訓練されている。

最初の
「基地内では銃に安全装置をかけておけ」
と注意するレンジャーの将校に対して
「俺の安全装置はこれだ」
と自分の指を差し出してみせるデルタ隊員のシーンに始まって、実戦でも指示待ちをするレンジャーの指揮官に対してデルタ隊員は、指示を待たずに勝手に退路を切り開くというシーンがある。

跳ねっ返りのデルタの隊員に向かってレンジャーの将校が
「デルタだからって好き勝手して良いわけじゃないぞ。ラスト5ヤードではオレたちレンジャーの力が必要になる」
とすごむ下りがある。
これはアメリカンフットボールのことを言っているのだ。
最初の10ヤードはクォーターバックとワイドレシーバーの鮮やかなパスワークで距離を稼げる。 しかしゴール前の5ヤードまできたら、そういう作戦だけでは勝てない。最後の5ヤードではフォワードもラインバッカーも全員のチームワークがないとタッチダウンは取れない。
デルタはワイドレシーバーだが、レンジャーはフォーメーションを組む全員だというたとえだ。

リドリー・スコット自身俳優にもデルタに体験入隊をさせたり、そのあたりのリアリズムにはかなり気を使っていたようだ。

このシナリオもそういう「レンジャー」や「デルタ」の隊員たちのインタビューから作り出したもののようで
「英雄になりたいから戦うんじゃない、仲間がいるから戦うだけだ」
というラストのデルタの独白にはこの戦争の政治的な意味を越えた、その現場にいた当事者の実感が盛り込まれているように思う。

それが分かるのは臨時にチョーク(小隊)指揮官に抜てきされたが、部下が今回の落下事件を起こしてしまい部隊全体を危機に陥れてしまったレンジャーの若い指揮官に向かってデルタの一人がいう言葉が示唆的だ。
「ああすればよかった、こうすればよかったっていうのは何の意味もない。そんなことは終わってからいくらでも悩む時間があるぜ」


戦争映画というのは戦闘シーンの迫力ばかりに力点が置かれて、そこにいた人たちの実感がどうだったのかが描かれていない「雑な」作品が多いのは事実だが、この映画の戦闘シーンは「痛そう」な実感が伝わってくるし、市街戦に放り込まれた兵士たちの心境がちゃんと描かれている。
さすがリドリー・スコットだなと思わせる映画にはなっていると思う。













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