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音楽そのものについての考察がおきざりにされた著作権議論の不毛

汝滅びの王座にあるものは静かにその死を愛でよ


音楽そのものについての考察がおきざりにされた著作権議論の不毛

音楽の著作権が「シンガイ」されているのだという。

だからその「シンガイ」を食い止めるために音楽のコピー禁止を厳重にし、音楽を録音できる全ての機器、MDレコーダやiPodのようなその目的で作られたものは勿論、パソコンやケータイ、キャッシュ機能を備えたテレビのようなものに至るまで全てのデジタル機器を視野に入れて、音楽著作権を「シンガイ」しうる可能性があるものはすべて「チョウセイキン」という名目であらかじめ賠償金を取り立てるという方向の議論がなされている。

私自身はもうこういうくだらない議論はいい加減にしてくれといいたいのだが、どうせ「チョウセイキン」を徴収するのなら1000%くらいの高額な金額を要求して国際的なもの笑いになればいいと思っている。
ぜひともやってもらいたい。
iPodの価格がアメリカの10倍とかになったら「iPod密輸業者」なんて闇の商売とかが現れて、これが新たなヤクザの資金源になったり、経産省に「特別iPod取り締まり課(通称iPodGメン)」なんて部署が新設されたり(文科省か?)、町を歩いているiPodのイヤフォンをしている若者たちは次々と職質されて「渋谷でイラン人から買った」とか言ったら逮捕されたりいろいろと面白いんじゃないだろうか。

そんなくだらない冗談はどうでもいいのだが、でも今議論されている「チョウセイキン」だの、「共有ファイルダウンロードは違法だが、見るだけなら違法ではない」なんていう全く現実に即さない議論はこのくだらない冗談と同じくらい意味をなしていない。

誰が音楽文化を支えるのか - 雑種路線でいこうというページを見つけた。 この記事を読んでいて思い出したことがある。

音楽著作権というのは無前提に音楽の創造者にある権利だとして、そこの検証が全くされないままそれが前提に議論がされているが、音楽著作権という考え方そのものがそもそもイリュージョンだったのではないかという検証は本当に必要ではないのだろうか?

音楽著作権というのは実は音楽家の権利を守るために創設された概念ではなく、音楽産業を効率的な一産業にならしめるために創作されたフィクションではないかと思うからだ。

そう思うきっかけを与えてくれたのは1999年にインタビューする機会があったジーン・カンだった。
彼の話題はP2Pという記事で詳細に書いた。

ジーン・カンは今日話題になっているwinnyやSkypeの原型になった「グヌーテラ」というP2Pの形態を最初に考案した人物だ。
それ以前の例えばナップスターのようなファイル共有サービスは「著作物を法をかいくぐって共有する」ということが目的でその手段は擬似的なP2Pでしかなく、やはりその技術的な問題点を突かれてナップスターは裁判所命令でサーバを停止させられ、結局買収されてどちらかというとCDオンラインカタログサービスのような業界寄りの良い子な会社に変身してしまった。

ところがジーン・カンは全くアプローチが違い、彼は技術的にまず完全なP2Pネットワークを完成させることを主眼にしていた。
それをどう使うかはユーザの勝手であって、たまたま著作権を侵害するようなファイルが共有されようがどうしようが与り知らぬことであるというスタンスだった。
「グヌーテラ」自体は「違法共有を幇助、教唆」していたナップスターのようなサーバシステムと違って、どこにも中心になるサーバがなく、完全に全ユーザが対等にそれぞれのリソースを共有するという仕組みになっていた。

裁判所命令でこれを止めるとしたら「グヌーテラ」に参加している全ユーザのパソコンを差し押さえる以外に方法はない。

またP2P自体はファイル共有を主眼にした技術でもなく、現に今P2PをベースにしたIP電話サービスなども登場するに至ってむしろ多くの可能性を持ったネットワーク技術にひとつの側面としてファイル共有という利用法もあるというのが正しい姿だ。
だから「グヌーテラ」は「インターネットは合法である」というのと同じくらい「合法」だった。

そういうインフラが完成してしまったら、それは社会にどういう影響をもたらすか・・・こちらがジーン・カンの主な興味だったようだ。
勿論グヌーテラの参加者は音楽ファイルも共有している。
だから私が参加したフォーラムでも、会場からジーン・カンに
「グヌーテラは音楽著作権を侵害しているがどう思うのか?」
という質問が次々投げられた。

この質問に対してジーン・カンは実に冷静に答えていた。
「グヌーテラを停止させることはもはや私にもできないのだ。
いわゆる『音楽著作権』の侵害はあるかと聞かれれば『その通りだ』と答えざるをないが、もはや『覆水盆に返らず』だということを認識した方が良い。
それよりもこの状況に合わせた新しい権利の設定を考えた方が遥かに現実的だ。
現在の音楽の著作権は太古の昔から存在しているようにみんな勘違いしているが、音楽家とは本来その演奏に対する対価として報酬を受け取っていたので、著作権という抽象的な録音定着、複写の制限を定めた権利はつい最近生まれたものだ。
まずそのことを勘違いしない方が良い。
グヌーテラはひょっとしたら音楽家と聴衆の関係を本来の姿に戻す可能性がある。」

彼の言葉は実に深遠だったのだが、ちょっとスケールが大きすぎて多くの人には理解されなかったようだ。
会場からは喝采も起こっていたが、多くの人は納得がいかないという感じで特に一部の人は
「やっぱりそれは犯罪の幇助ではないか?」
という形式的な法解釈論に拘泥する質問が相次いだ。

私はジーン・カンのレジュメを事前に読んでいたから、その言わんとすることがよくわかったのだが、例えば
「誰もが遵守することができるわけではない法、遵守する理由を理解させることができない法は、法として破綻していないのか?」
という問いかけがまずある。
また
「法とは人を善悪に峻別するために発明されたものであろうか? それとも人間の社会生活をアシストするための補助則として運用されている約束事に過ぎないのか?」
という問いかけもできる。

ジーン・カンという人物は単なるコンピュータ技術者ではなく、彼の興味は社会学的な広がり、さらには音楽などの文化論的な広がりも持っていた。
例えば
「音楽というものはどのように発生するのか?」

音楽は何もないところから突然生まれたりしない。

例えば野辺送りのマーチを、酒場の音楽として発展させたニューオリンズの街。
ニューオリンズの黒人たちが最初にマネしたのは軍隊マーチだった。
南北戦争で払い下げられた軍楽隊の楽器で、マーチ音楽のまねごとをするうちにそれを独特のリズム感と野辺送りの哀調を混ぜ合わせて「ジャズ」という音楽を創造した。

そのジャズは先人のスタイルをマネしながら独特に発展していった。例えばNYジャズの一部のミュージシャンはブラジル音楽のサンバのマネをし始めた。
サンバのスクエアな裏打ちリズムをマネするうちに、段々ジャズなりの洗練が入っていき、そのNYラテンを今度はブラジルのミュージシャンたちが逆輸入するようにマネし始めた。
こうして核融合のようにして生まれてきたのがボサノバという音楽だった。

ジャズの一部のミュージシャンはカントリーミュージックとも融合していき、やがてその一部がカントリースタイルのビートをさらに発展させ、ミシシッピブルースのような音楽とも融合したりバリエーションを拡げていってロックンロールのような音楽も生まれてきた。
こうした音楽が現在の8〜16ビートベースの音楽の大部分の基礎になり現在に至っている。

特にこのジャズとサンバの相互作用でボサノバが生まれる辺りで、ミュージシャンたちはお互いの曲をカバーし合い、相手のレパートリーを自分達のスタイルで再調理するということでこの二つの音楽は大きく進化した。
これが音楽の本来の発生原理なのだと思う。
実際ジャズなどという音楽は「カバー曲」がなければ存在できないジャンルだと思う。

ところが現在の音楽著作権関連法規を遵守するなら、他人の曲をカバーするにはその音楽の著作権管理会社、作曲家、作詞家、編曲家をミュージシャンが自分で捜し出しそれら「隣接著作権」を持った全ての人の承諾を得て、必要な対価を支払った上でないと演奏はまかりならない。
そういう事務手続きを全て個人がやらなければならず、これは事実上の「カバー曲演奏の禁止」を意味している。
相当なレーベルの支援を受けている超有名ミュージシャンでもなければ、他人の曲をカバーするなんてことはまず不可能だ。

この状況でかつてのボサノバの核融合のような大進化が起きるだろうか?
大体そもそも最初に黒人たちがマネしたアメリカやヨーロッパの軍楽隊の音楽は、オスマン帝国のウィーン包囲の時にイエニチェリ(トルコ軍)の吹き鳴らす「Ceddin Deden(偉大なる祖先たち)」などの「メフテール(軍楽隊)」の音楽に恐怖を感じたヨーロッパの陸軍がそのマネをしたもので、ベートーベンやモーツアルトもそのメフテールのマネをして
「トルコ行進曲」
なる曲を作ってしまったことは有名な話だ。

マネやカバーを禁じるということは、音楽の進歩を禁じるに等しいということにならないだろうか?


音楽家は確かにジーン・カンが指摘するように、その長い歴史の中で大部分の時代は、演奏の対価としてその報酬を受け取っていた。
優れた演奏にはパトロンも付くので、音楽家はその演奏技術を高めそのレパートリーを充実させるために自分で創作できるものは創作し、創作できないものは他人からレパートリーにふさわしい優れた音楽の楽譜を買ってその表現力を鍛えていった。
これが本来の音楽の市場流通の姿だった。

これに変化が現れて録音の定着や複製、マネやカバーなどを禁じた音楽著作権法の体系が出てきたのは、20世紀的な事情による。
20世紀は蓄音機、映写機、ムービーカメラなどが発明され音楽などのパフォーマンス芸術を記録する方法が生まれた。
そしてその記録物を販売する「音楽産業」という新しい産業も生まれた。
この記録媒体で最初に他人の興行権を盗んだのは、まさに発明者のエジソンその人であるという話も聞いたことがある。

そういうことが起きないように他人の興行権を侵害する複写物の頒布を禁じる法体系が必要になり、それが今日の著作権法になっていると思う。
だからこれも現実の変化に合わせて柔軟に修正されて、作り上げられてきた法体系なのだ。

であるならば、現実の方がすでに変化してしまったのならその現実に合わせて法解釈や場合によっては法律の条文そのものを改変していくということは常にいつの時代でも必要なことではないか?

これは大部分の社会の規範が判断することで、私個人がいうことではないのだが、ちょうど今がその時代に当たっているような気がする。
20世紀的な音楽産業保護法的な著作権は、ある時代にはその存在意義を果たしたと思う。
音楽はトルバドゥールのような吟遊詩人の個人芸から、造船や紡績のような
「マスプロダクション(大量画一生産製品)」
になり、まさに自動車産業のように一大産業として、業種一覧の一角を占める経済活動へと変化した。
そのことがある時期、音楽の進歩を促進する原動力になった時期があった。

しかし今音楽は自縄自縛と言える制約の中で、かつての躍動を失いそれでも産業としての株主配当利益だけは期待されるという最悪の経済構造を維持するために、とにかく音楽に金を払う気がない連中が音楽を聴くことを禁止することに巨額な設備投資をして、その財源としてそういう違法行為をする連中が使う可能性がある機材、つまりiPodとかMDレコーダーとかケータイとかパソコンとかそういう 「記録機能がある全てのデジタル機器」
から「賠償金」をあらかじめ事前徴収するという議論をしている。

けれどもこの議論の中のどこの部分に「クリエーターの権利を守る」という発想が込められているんだろうか?

本当にクリエーターの権利を守りたいのなら、金を払う気がないヤツを締め出すためのコピーコントロールに莫大なコストを払うことよりも、金を払う気があるヤツから効率的にお金を集める工夫をした方が遥かに良い。
そういう収益をできるだけたくさん上げて、ちゃんと貢献したクリエーターに分配してこそ「クリエーターの権利が守られる」のではないだろうか。
そしてまさにその成功例をAppleのiTMSなどが見せたのではないだろうか。

ところが肝心の音楽産業と音楽権利保護団体そのものがそういう時代の変化に全くついていけてない。

ニュースの表層は地雷原のように誤報、誤爆が散在している(1)というこちらの記事でも書いたように、一時期AppleからJASRACに納入された音楽著作権使用料2億5千万円が、全く権利者に配当されないまま留保金としてたなざらしにされていた事件があった。
しかもそれをJASRACが会計記載漏れをしていたので
「ネコババする気だったんじゃないか?」
と話題になっていたことがあったが、私はそんなに悪意にこの事件を解釈していない。
ネコババする気だったんじゃなくて、「本当にどうしていいか解らなく」てその処置は先送りされていただけではないかという気がする。

このことはとりもなおさず業界と業界の周辺権利団体は、これだけもう現実の世界とは隔絶していて、全く世の中の変化についていけてないということの証でもある。

音楽の販売チャンネルにしても全く同じことが言える。
かつてのメジャーレーベルは、音楽商品を市場に投入する時に一気に数十万枚のプレスをかけて、それを全国の主要なレコード販売店の店頭平積みの一番売れるところにまとまった数量を置くことができる物量作戦を展開できたし、その期間中にテレビに数万本のスポット広告を打たせたりということが可能だった。
勿論それは今でも可能なのだが、かつてはそれがメガヒットを生む唯一のSP活動の手段だったのだが、今はそういうマスプロの時代とは全く違う。
テレビに数万本のスポットを打って音楽を露出させるには巨大な物量が必要だが、webに良質の情報をアップして、そこにユーザを惹き付けるような仕組みを作るのには、メジャーレーベルの巨大な資本蓄積がないとできないというわけではない。

現に今そういうweb中心のレーベルや音楽ファンドも立ち上がってきている。

そうするとかつての音楽産業のような巨大な資本蓄積が、本当に音楽の創造のため、音楽の進歩のために必要なのかという疑念がわいてくる。
かつてはそういう関係性もあったかもしれないが、今ではそれは二律背反になってしまい、資本を守るために音楽の自由は制限されているような気がする。

今の音楽産業はちょうど日本のマスプロ自動車メーカーが製造する大衆車のようなものだ。

メジャーレーベルが作り出す音楽は、取り立ててどこが破綻しているわけでもない。どれもそれなりの水準に達している。
サウンドもそれなりに豪華だし、ヒットの法則もそれなりにふまえて作られている。
ジャケット写真のアーティストもそれなりに美男美女だ。
だが、心に引っかかるものがない。
マスプロ自動車メーカーが作る大衆車は、特に破綻なく走って曲がってブレーキも利くし最近の日本車には「ハンドルを胡桃材で作ってみました」とか「本皮シートを装備」というようなそこそこの高級感もちゃんと備えている。
じゃあ、それがプロダクトとして末永く人々の心に残るような「魂がこもった」ものかというとなんだか違うような気がする。

本当の魂に響くプロダクトは、そういう巨大自動車メーカーからではなく、一地方工場、一個人デザイナーのハンドメードなプロダクションから生まれてくるような気がする。
音楽だってそうだ。
巨大音楽資本のメジャーレベルからしか音楽が生まれないという時代はもう終わっていると思う。
むしろそういう音楽巨大資本が蓄積している
「メガヒットを生み出すためのメソード」
というような経験則が、音楽の自由な創造を著しく阻害しているように感じる。
それよりも本当の音楽の担い手は、観光客も来ないようなメインストリートから外れたライブスポットや、マイナーなwebレーベル、あるいは京都の三条河原のようなストリートから生まれてくるような気がする。


冒頭でも触れた誰が音楽文化を支えるのか - 雑種路線でいこうという記事にはこんな一節がある。

『対価を支払うとか商品を購入するという近代的で疎外された関係だけでなく、素直に感動を伝えるためにお金を払って、そのことを縁にアーティストと繋がることがとても簡単になった。音楽を聴く権利という風に物象化されたパッケージングするから、ダウンロードのような代替手段に食われるのであって、そうやって人と人の心が繋がっていく、彼らが音楽活動を続けられることを願い、それは生活を支えるほどでなくても、いつも聴いているよ、あなたを感じているよということが伝わるだけで、表現者はモチベートされるだろう。実際、数でいえば音楽で食っている人々より、そういったアーティストがずっと多いのではないか。

文化の豊かさという尺度での議論は難しいものがあるが、経済規模よりは参加者の裾野の広さや多様性、視聴者の成熟度が効いてくるのではないか。賭け金が上がって流行り廃りでポジティブフィードバックの働きやすいメジャーより、様々な試みが行われてアテンションを競い合うインディーズでこそ新しい何かが生まれつつあるのではないか。』

この節全く同感だ。
今の音楽著作権論争には、クリエーター同士あるいはクリエーターとリスナーの相互作用という視点がごっそり欠落している。
音楽は単なる自動車メーカーが量産する大衆車と同じものとしてしか見られていない。
だから
「車を盗んだら犯罪だろうが? なのに音楽は盗んでもいいなんて理屈が成立する筈がないだろう!」
という論理しか生まれない。
そういう視点から世界をくくればそういう倫理、モラールの問題にしか落とし込むしかなくなり、音楽の消費者は常に音楽を盗もうと虎視眈々と狙っている犯罪者にしか見えないだろう。

そしてそういう世界観に凝り固まっている業界からは革新とか進歩とか、新しい何かの創造とかそういうものは全く期待することができない。
バーボンストリートの観光産業に手厚く保護された黒人プレイヤーたちから新しいジャズのムーブメントなんてのは何千年待っていても絶対に出てこない。

この筆者のおっしゃられるようにそういうものは、そういう業界とは関係ない周辺の世界からしか生まれてこない。
これも過去数百年に渡って音楽の世界で繰り返されてきた歴史そのままの法則なので、いまさら驚くこともない。
つまり我々はこういう守る価値もない過去の壊れた音楽の孵卵器を守るために「チョウセイキン」なる使途不明なお金を徴収されようとしているのだ。


私自身は音楽産業とは無関係なヒトだし、音楽のクリエーターにも今の音楽そのものにもほとんど興味はない。たまたまある事情で音楽の創造の世界は少し知らないでもない世界なのだが、もうそんなことはどうでもよい。
音楽産業が浮上しようが、沈没しようが溺死しようがそんなことは知ったこっちゃない。
しかし死ぬんなら一人で勝手に死んでほしいのだ。
「チョウセイキン」
なんて悪あがきで他の業界や他の世界まで巻き込んで大迷惑をかけて、皆に不快な思いをさせて死んでいくようなことだけはしないで欲しい。
繰り返し言う。
死ぬんなら勝手に人知れず一人で野垂れ死んでくれといいたい。

日本のネットの世界の浸透にいかなる迷惑もかけていただきたくないのだ。
私が今音楽業界に望むことはたったそれだけだ。




2007年12月6日













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